レインウォッチャー

パリ、テキサスのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

パリ、テキサス(1984年製作の映画)
4.5
もしもわたしが異星人に拉致されて銀色のベッドに寝かされ「映画トハ何カ?」と訊かれたとしたら、パパ『パリ、テキサス』ってのがありまして…と話す気がする。
それほど、この作品は映画らしい。光と音と感情の魔法、現実から幻想への当て所もないグラデーション。すべてが驚くべき純度で同居して、夢の中に浮かんでいる。

そう、グラデーション。今作は所謂ロードムービーとして知られているけれど、わたしなりに言い換えるならばグラデーションの映画、曲線、曲面の映画だ。

今作を彩る要素のひとつに、ライ・クーダーによるスライドギターの音楽がある。
因みにスライドギターとは、指ではなくガラスの筒などを弦に乗せて曖昧に押さえることよって、ドレミにとらわれない「間の音」を表現できる奏法だ(※1)。同じ高低差を階段で一歩ずつ移動するか、坂道を滑る(スライド)ように移動するか、というイメージをすれば良いと思う。

つまり境目がぼかされた音のグラデーションとも言えるわけで、この曲線的に咽ぶ音色は劇中で移り行く空模様と相性良くリンクする。
茫漠たる荒野を漂泊する昼間の嘘みたいな水色から、やがて灼けてオレンジ暮れてパープル、夜には街の灯がエメラルドの粒をざあっと撒いたように瞬く。聴覚が、視覚が、緩やかにしかし気づけば明らかに様変わりする風景に委ねられて、「どこか」へと連れて行かれるのだ。

そして、この曖昧さは物語、あるいは旅それ自体にも通底している。

トラヴィス(H・D・スタントン)は、空白の4年間のどこまでを覚えていてどこからを忘れていたのか。
彼が息子と妻ジェーン(N・キンスキー)のために取った選択は正しいのか、誤りか。

これらはどれも一意に決めきることはできず、グラデーションの靄に沈んでいる。
ただひとつ言えるのは、かつてトラヴィスが現実逃避の果てに溺れた放浪と、最後に意志をもって「選んだ」旅は別物であるということだ。

トラヴィスは飛行機を嫌い(双眼鏡で飛行機を眺めるかと思いきや地面を動く影を見ている)、地上を往くことにこだわった。地球の曲面でできた大地もまたグラデーションであり、地に足をつけている限りどこに居ても繋がっている…

その集約的な特異点こそが「テキサスのパリ」なのだろう。彼のルーツでもあり理想郷でもある、始まりと終わりが繋がる場所、何にもないテキサスのパリで、いつかまた出会うべき時に彼らは出会うのだろうか。そのとき初めて、トラヴィスは眠れるのかもしれない。

さて、映画の冒頭、トラヴィスがふらふらと訪れる小屋にこんな文句の掲示板がある。

"The dust has come to stay. You may stay or pass on through or whatever."

かつて塵芥から生まれたとされたわたしたちは、居るも居ないもやはりぼやけて、同じで、どこにでも行ける存在なのかもしれない。誰もが生という「途上」にあって、曖昧な旅を続けている。
薄っぺらいハンバーガーを出す食堂で、艶っぽいライトが誘う小屋で、いつか着くテキサスのパリで、あなたと偶然に必然に運命的に出会えたら良い、と思う。

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つい先日リリースされたLana Del Reyのアルバム『Did You Know That~』には、まさしく『Paris, Texas』なる曲が収録されている。
映画と直接の関係があるのかは不明だけれど、"When you're home, you're home ."なんてフレーズは少し今作を思い出させたり。

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※1:今年某アニメの影響で一瞬バズった「ボトルネック奏法」とはこのこと。