レインウォッチャー

水深ゼロメートルからのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

水深ゼロメートルから(2024年製作の映画)
4.0
後味のよさ・オブ・ザ・イヤー2024、はコレで良いんじゃあないかしら。

体育の補習として、水のない砂だらけのプール掃除に集められた女子生徒たち。
夏が威勢よく照り付ける、隠れ場所のない屋上で、ぽつぽつと彼女たちの心情が明らかになってゆく。モヤモヤ、ムカムカ、イライラ。そして、何よりも大切にしたいこと。

水のないプール…とは透明の天井であり、鍵が作られなかった鎖。
「女であること」について語る彼女らの姿は、正直なところ少しばかり背伸びをさせたように見えなくもないけれど、凡百のフェミニズム消費映画などではとても到達できないライブ感と、当事者ならではのフラットさがある。

学校や教育の現場において、同時に多数の生徒を扱う以上、ある程度の《枠》とか《カテゴライズ》が必要となることは否定できない。しかし、歴史があればあるほど外社会とは時間の流れがズレていく場所でもあり、毎年循環する生徒たちの中で伝統・秩序・習慣が濃く上書きされ続ける。
そのプロセスで徐々に醸成された崩しようのない大前提やバイアスの形を彼女たちは肌で感じていて、まだ覚束ない言葉や身体で表そうとするのだ。時に、それは文章にならない叫びになり、水のないプールで水泳の練習をする、みたいな奇行になったりする。日なたに投げ出された素足が発散する青い性と、刺し返す罪悪感。

体育教師(さとうほなみ)と口論になる場面はまさにそんな緊張が顕わになるけれど、今作が《学校》や《女子》だけに閉じた作品ではないとわかるときでもあるだろう。学校を卒業し、おずおずと仕事を始めたり見様見真似で家庭を持ってみたりしてなお、わたしたちの誰もが水のないプールに居るままなのかもしれない。

そのようなイメージを助けるのは、屋上のプールというステージの妙、空に開かれながらも柵・枠に囲まれた空間。停滞・閉塞しているようでもあるし、ある種モラトリアムのエアポケット、休憩地点のようでもある。
プールサイドとプールの中、など上下の位置関係がうまく使われている演出も見つけることができる。時に上側に立つ者が発する圧、あるいは自分をパーソナルスペースの安全圏に置こうとする逃避を強調し、底へ下りていくことで共感・協調の可能性を示す。このあたりは、演劇を原作としながらもあくまで映画らしい昇華が光っている箇所だと思う。

また、無理にひとつの思想に収束させる(※1)のではなく、それぞれの立場からの《宣戦布告》へと繋がっていくバランス感覚が好ましかった。
彼女たちは、この物語を経て大親友になりました、というわけでもきっとなく、各々のフィールドへと戻ってゆく。しかし、お互いがお互いに思わぬ影響を与えたことは伝わってきて、彼女たちはこの時間のことをこの先も覚えてるんじゃあないかな、と思わせられる。

しかしまあ、ラストの切れ味がすべてを持って行く。季節が、潮目が明らかに変わった(進んだ)ことを示す雨音(※2)は、祝福のエールであり開戦のゴングだ。じわじわ充満してきたエネルギーがついに決壊して、前慣性のベクトルへとつんのめるようにあふれ出すみたい。彼女の射る眼差しを思い出すと、性別や年代を越えた勇気が湧いてくる。

「ここからよ、ここから」。
このプールの底に、水がなくてよかった。この額を炙った暑さを、この足裏に感じたざらつきを、忘れないからだ。

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※1:これはかつて『アルプススタンドのはしの方』でわたしが少々モヤった点でもあった。

※2:山下敦弘監督ならではの「過ぎゆくもの」「変わりゆくもの」へのビュー。