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『悪い奴ほど手が白い』に投稿された感想・評価

シチリアは風光明媚なチェファル(『ニュー・シネマ・パラダイス』のロケ地らしい)で起きた、ある予告殺人。被害者の愛人の家族が容疑者として逮捕され、事件は解決されたかに見えたが、友人のひとりが疑問を持ち、独自に捜査を進めていくうちに辿り着いた真実とは。

勘のいい人はすぐに結末を予想できてしまうのだろうが、私はまんまと騙されてしまった。チェファルとパレルモを行き来しながら謎解きに夢中になる主人公と、それを見守る怪しい男たちの影。暗示的なショットを交えながら、迫り来る危機への恐怖がジワリジワリと高まっていく。一市民が、時に無自覚のうちに大きな力へと戦いを挑み、敗北していく姿は、勝利という形で終わる多くのアメリカ映画とは味わいが異なる。マフィアを描いた初期の映画らしい(1967年)が、それはまさに追い詰めては抹殺されるという、イタリアにおけるマフィアとの戦いを象徴しているかのようだ。小市民は、見て見ぬふりをするのが一番…。

すべてが明らかになる、ラストのかっこよさ。エリオ・ペトリは『華麗なる殺人』(1965年)しか見たことがなく、監督としての振り幅の広さに驚いた。『殺人捜査』(1970年)と『労働者階級は天国に入る』(1971年)が、特に評価されている作品のようなので、そのうち見てみたい。

2016. 81
シチリア祭り(9)

原題は "A ciascuno il suo"(各人それぞれに各人のものを/ひとはそれぞれにしかるべきものが与えられるべきだ) 。これはローマ教皇庁の半ば公式の日刊紙オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙の一面の発行人の下に記された、ふたつのラテン語のフレーズのうちのひとつ Unicuique suum のイタリア語訳。

イレーネ・パパスの存在感が抜群。喪服からチラリと見える膝だけで、ウブな高校教師を悩殺してしまうのだからすごい。その高校教師を演じたのがジャン=マリア・ヴォロンテ。この人はほんとうに、出る映画出る映画でまったく違う人物を当たり前のように演じてしまう。いやはやまったく、すごい。鍵となるのは、アントニオーニの『情事』(1960)ではシチリアにやってきた本土の色男をやったガブリエーレ・フェルツェッティだけど、ここでは真っ白なスーツが妙にピタッとくるシチリア人弁護士の依代となる。なるほど、それもありだよな。

原作はレオナルド・シャーシャによる1966年の同名小説。マフィアについてのミステリーの最初のものは、1961年の『真昼のふくろう』なのだけど、その映画化はダミアーノ・ダミアーニによる1968年の同名映画。エリオ・ペトリによるこの作品は、それよりも1年前に公開されたもの。ある意味で、シチリアを舞台にして得体の知れない犯罪集団としてのマフィアの存在を描く最初の作品といえるのかもしれない。

もちろん、以前にもピエトロ・ジェルミの『無法者の掟 In nome della legge』(1949)のようなものもあるし、タヴィアーニ兄弟による『火刑台の男』(1960)や、フランチェスコ・ロージの『シシリーの黒い霧』(1962)などもある。けれども、作家シャーシャと監督ペトリによる(おそらく)最初の共作は、新しいミステリーとしてマフィア映画のジャンルを刷新し、ある意味で最初の「政治的な」映画といえるのかもしれない。

追記:2023/12/17
ラストの部分を少し書き換え。この記事を参照。
https://www.ilfattoquotidiano.it/2016/03/12/leonardo-sciascia-ad-elio-petri-io-scrivo-solo-per-fare-politica-cosi-nacque-a-ciascuno-il-suo/2539921/

エリオ・ペトリについては、本気で考えてみたい。この作品がウーゴ・ピッッロ、ジャン・マリア・ヴォロンテとの連帯の始まりと言われているのだけど、そのあたりのことも俄然興味が出てきた。

なによりもウーゴ・ピッロの名前は、おそまきながら、ぼくにとっての関心をどんどんふくらませてくれている。