山田太一の原作小説の映画化なのだが原作を未読な上、どうしても大林宣彦監督作品の「リメイク」という風に比較して観てしまう。
概ねプロットが充分過ぎるほど泣けて切ない物語なので、原作が既に勝っているというのもある。
その上で本作だが、日本人と英国人との間での感動のポイント、情緒に関しての機微、そしてあるところからの世代的レイヤーの差異などが感じ方として浮かび上がる気がしてきた。
本作はまず主人公であるアダム(アンドリュー・スコット)が脚本家として「物語」を創造する立場にあることが強調されている。
死んだ父親(ジェイミー・ベル)や母親(クレア・フォイ)が幽霊なのか、あるいはアダムその自身が創作した物語の世界に迷い込んでいるのか、という解釈が開かれた構造が見事。
自己言及というメンタルヘルスをほぼほぼ2時間を使って丸々映し出すというミニマムなテーマを原作から抽出している点がまず素晴らしいポイントだと思う。
本作のような物語は、やはりプロットが強すぎるという部分が大きく、演出がウェットになりがちだと思われるがアンドリュー・ヘイ監督は、かなりドライな距離感で物語を描写する。
情感に訴えてくるようなクールに決まるところもあるにはあるのだけれど、そのクールさがマイナスに転じてしまう点も散見される。
そこが両親との別れを示すダイナーでのシーンで、感動的ではあるのだが一方で盛り上がりを抑制し過ぎて、情緒的な部分で感動しきれなかった。
このレビューを書く前にいくつか、齢の離れた友人と議論をしたのだが、ラストの展開に関しては首を捻ってしまう。
無論、無用なこだわりとカルト的なサプライズを用意した大林宣彦とは違って、映画を大きく破綻させるような展開には陥らずにむしろハリー(ポール・メスカル)の死に直面させる展開のシーン運びはショッキングでもあるし、脚本の構造としても見事。
両親との決別は、過去への自己言及となるのに対して、ハリーとの関係は現在の自分への言及である。
自分の内側にある「孤独死してしまうかもしれなかった自分」を抱きしめるというのは実に現代的かもしれない。
それらが星屑のひとつひとつで、誰しもにあることとして提示される演出は少しクドさも感じる。
何より一番疑問に感じるのは、両親との決別はひとつの成長を促すものでありながら、メッセージの重要性を理解できるとはいえ、対比的に描かれた「死」の扱いが、再び過去の喪失に耽溺するという風に扱われている点。
喪失の記憶にすがることが、そこまで悪いことだとは思わないが、そこには何か一点批評的な視点が欲しかったと思う。
そうでなければ、その「自己言及」の映画としてのマナーが不成立に見えてしまう。