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エンドレス・ラブのotomisanのレビュー・感想・評価

エンドレス・ラブ(1981年製作の映画)
3.8
 女にしてみりゃ男は偉そうで押しつけがましく、勝手に攻め入って来て、それこそが売りのつもりでいる了見の狭いバカなんだろう。しかし、当の女もその押しに揺さぶられると何かを見失ってしまうのかもしれない。その代わり心中で顕わになるのが"Love"だか"愛"だかなら男と一緒にバカになるのが人の道、けものの道なのかもしれない。

 押し男のデヴィッドは8歳のトムに倣って放火して、ブルックを助けに飛び込めば一家の歓心を取り戻せると思ったのか?そんなバカが治れば放免とするのも、8歳児の倍も生きて来た企業弁護士一家の倅で、宇宙飛行士志望でもあって、なんで根っからのバカであり得ようかという偏見によるところだ。これに対抗するもうひと方、男の了見丸出しなのが資産家の出ながらヒッピー育ち、羽振りの良さは大方美容整形医あたりと見えるブルックの父親だ。鼻持ちならぬ連中だが二人とも悪い人間ではない。だが、それは我意の通じる限りであって、それが妨げられると理性も停頓する性である。その点、二人はよく似たもの同士であるが、一つの縄張りに二人の女、娘ブルックその母、つまりその後別居に至る妻を巡って両雄相立たず、不覚を取った父親は自滅的に淘汰される。
 こうして"Love"はendless目指して駆け出すのだが、このEndless loveの甘ったるさに引き替え事態も絵柄も、この殺伐さは何だろう?父ヒューイの死を確信したのち、デヴィッドは遂に泣く。しかし、それは死者への哀悼でも火災の中、命を救ってもらった恩さえあるヒューイに対する惜別の涙でも無く感じてしまう。それは父を遠回しに殺したことでブルックと自分との疎隔が一層増すことへの無念の思いに違いないと直感するからである。

 ブルックの母が言う通り、夫ヒューイの死は了見が狭過ぎて赤信号も見えない「バカ」のせいに違いないが、同じバカはやはりデヴィッドにもあり、いつかブルックと結ばれ娘を授かり年齢が達するとヒューイと同じように別のオスに一線を仕切るようになるのだろう。父親なら当然の習性であるとともに、過ぎた了見の狭さが顕わになるかどうかの瀬戸際を再び試されることだろう。
 しかし、そんな想像の前に了見の狭いデヴィッドが再び入獄し、今度はどんな詐術を身に着けて出獄するのだろう。一度は形無しとなった授刑機関はまた騙されてくれるだろうか?

 それでも邪魔者がいなくなったブルックは獄窓の外でデヴィッドを待っている。その姿には、どこか一途でありながら、ただそれだけな存在の冷涼感を覚える。一方、2年ぶりの揺さぶりがいつまで余韻を残してくれるだろう。獄窓越しに二人の疎通が描かれないのは、ひとえにそんなデヴィッドの不安が然らしめるところである。ブルックの母が示すように男にも賞味期限があって、ブルックもいつか獄中で廃れたデヴィッドを見限って新鮮な揺さぶりに新しい"Love"を顕現させるかもしれない。それこそLoveのEndless性の異なる相というところであり、ヒューイが然り、有限な一人一人の人間にはそれに置いて行かれる哀れが見出されるのだろう。
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