杜口

機動戦士ガンダムの杜口のレビュー・感想・評価

機動戦士ガンダム(1981年製作の映画)
4.3
ガンダムは作画が悪いってよく言われる。
もちろん、それはそうなんだけどこれは演技のさせ方は上手いし、演出はいいといったことが前提。つまり絵コンテはいいってこと。
だからダメなのは原画マンや動画マンで、安彦が作画したところなんかは問題無い。
だから安彦の作画を増やした劇場版3作目などはそのためかなり改善されてはいる。

ただそれでもアニメーションらしい魅力が出てるのは3作目最後、アムロとララァが通じ合うところぐらい。
別にそれで貶めたいわけでもないのだが、自分にはそこに何かしらの必然性がある気がする。
当時のサンライズが自社企画制作まだ2本目の弱小プロダクションで予算も時間もなく、若手が多く描いてたといった理由だけでないなにかが。

例えばガンダムはスターウォーズの第1作の公開から2年後に放送開始。日本公開からでは1年後。
つまり、ガンダムはSFブーム真っ只中で放送された。
このガンダムがスターウォーズの公開時期と非常に近いっていうのは自分には必然的に感じる。何故ならスターウォーズは映画らしい体験より物語を重視していて、ガンダムも同じくアニメーションらしい体験より物語を重視した作品だからだ。

そして自分はそれがSFのもつ何かに起因した現象ではないかと思ってる。
まだ仮説に過ぎないが、SFの魅力、特にハードSFと呼ばれるようなものがもつ性質が、媒体の性質を抑えるのではないか。
それはアニメに限らず、映画においてはスターウォーズやインターステラー、ゲームにおいてはゼノギアス、漫画においてはファブスター物語など。どれもSFとしては素晴らしいが、映画としては、ゲームとしては、漫画としてはダメダメな部分が多い。
もっと言えば小説であってもハードSFは媒体の持つ性質の完全な解放には至ってないのかもしれない。例えばモダニズム文学が行ったような言葉と意味の繋がりすら破壊するといった言葉の論理性を剥奪する行為を、SFはその科学性=論理性といった性質によってすることができない。
他にもハードSFの漫画といえばまず攻殻機動隊を想起し、漫画のコマ割りから画力まで完璧ではないかと思うだろうが、あれは膨大な注釈という反則的技によって離れ業を成し得たように思う。

そこで自分は上記のようにこの現象はハードSFに特に顕著な科学性=論理性=言語性に由来するのではないかと思った。
だからこそ言語や論理を超えたニュータイプのニューエイジっぽいヒッピーな思想。それが前面に現るアムロとララァが通じ合うシーンにアニメーションの快楽が出ている。
また映画ならば2001年宇宙の旅などは土星前にあるスターゲイトを通って人智を超越した存在に会う。これはカバラの生命の木といったヒッピー文化を支えたオカルト思想からとったものだが、こうした引用からわかる通り2001年はスターゲイトの見る者を幻惑させるサイケっぽいシーン含め、論理を超えた体験として映画を作ったからこそ映画の快楽が生まれた。

といった感じでSFとそれを表現する媒体。その2つの間には埋めがたい無限の断崖があると思う。

まあ根拠がまだ薄すぎるので色々と考えなきゃいけない。
そもそもこんなことフィルマークスに書くことでもないよなとか途中で思ったけど、ブログやってないしなあといった具合で書いちゃいました。
長文失礼。
杜口

杜口