杜口

ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカットの杜口のレビュー・感想・評価

5.0
「未来に生きろ 過去を塗りかえろ」

『ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット』は、もうこのたった一つのセリフを聞くためだけに観てもいい。
アメリカとは何か、その全てがここに詰まっている。歴史修正主義と批判されようとも、それに漸近する訂正可能性を持って漸進し続ける歴史こそが、アメリカの本質であり胆力の所以だ。
フラッシュは、父の言葉「過去は捨てて 未来に生きろ」を、「未来に生きろ 過去を塗りかえろ」とあえて誤読することで、「影響の不安」を乗り越え、歴史、人生に立ち向かう。そして、それはスナイダーカット自体が、過去の『ジャスティス・リーグ』(2017)を塗りかえる作品であることにも繋がる。

しかし、この作品の凄さはそれに留まらない。すぐさまそこに批判が加えられるのだ。傷ついた黒人によって...

母を失い、父を失い、自らの体すら一部失った男、サイボーグ。彼は欠損無き家族に問いかけられる。
「ずっと待ってたわ 醜い体になって・・・
もう一人じゃない また家族一緒だ
すべて取り戻せる 元通りにね」
しかし、彼はこう答え、それを拒否する。
「俺は醜くない もう1人じゃない(「I'm not broken, and I'm not alone)」
このセリフは差別の歴史の中で幾度となく繰り返されてきた美醜の区別、それを捨て去る崇高としてのサイボーグの誕生を意味する。しかし、それと同時に復活したスーパーマン、傷を回復するフラッシュなどの人間を超えた神たちの物語、その崇高な神話と彼は距離を置く。いわゆるトランスヒューマンにも関わらず、加速主義的なフラッシュに対してサイボーグは自らの傷、歴史の傷を記憶し、生きることに意味を見出す。
このフラッシュとサイボーグの関係性にこそ、訂正可能性と傷の歴史に成り立つアメリカを見つけることができるであろう。
その二つを掛け合わせた言葉として、「可塑性」を想起させるサイボーグの父は
「すべては壊れー 何かもかも変化する 世界は傷つき 壊れ 取り替えもできない だが世界はー 過去ではなく 未来に続いている まだ来ぬ未来 そして今に そして今 お前がいる」
と投げ掛け、最後を締め括る。

とはいえ、本作のあまりにも長く、冗長とも言われかねない語りはシネフィルの怒りを買うだろう。それでも本作が重要であると言わざるを得ないのは、奇しくも『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』と同年の公開となったことに由来する。この作品の本作との共通性は映画のCGを大きく前進させたことに限らない。「模型」(松下哲也)としての映画を誕生、完成?させた点にある。だからこそ、主人公はサイボーグでなくてはならなかったのだ。あのCGを纏い、自由自在に身体を変化させる彼にこの映画の真価が詰まっているのだ。その意味で、スナイダーカットはサイボーグがさして描かれない劇場公開版とは全く別の作品と言っていい。そして、そのような模型のキャラクターに死は意味を持たない。軽々とスーパーマンは復活し、フラッシュは傷を回復し、壊れた街をプラモデルのように組み立て直す。
私たちが来るそのような世界を歩む時、この映画が、フラッシュとサイボーグの姿が助けとなるだろう。
杜口

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