映画漬廃人伊波興一

オリーブの林をぬけての映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

オリーブの林をぬけて(1994年製作の映画)
4.6
瞬(まばた)きひとつで時空を移行してしまうこの映画に、私たちの瞳がどれだけ耐えうるのか?

このトリコジーにまとう比類なき貴重さを語る術など私にはありません

アッバス・キアロスタミ「オリーブの林をぬけて」

この映画について拙い戯言を放つ前にまず一世紀の時間を遡行した迂回を試みたい。

今から100年前に公開された、松竹に現存する最も古い「路上の霊魂」(大正10年 村田実監督)という映画をご存知でしょうか?

パブリックドメインのおかげで現在ならYouTubeでも容易く鑑賞出来ますが、その前半、故郷へ帰る親子三人が長い一本の道のりを歩く姿を遠くから捉えたロングショットがあります。

そして「オリーブの林をぬけて」を観た方なら、木漏れ日が風になびく草原一面に映え渡る最後のロングショットに必ず虜になったに違いないと思います。

どちらかを、どちらかに準(なぞ)えたとしても、そこにはいかなる差異も違和感も生じません。

「路上の霊魂」という映画がサイレントでありながら既に時代を先走っていたとか、「オリーブの林をぬけて」という映画が懐古的なくらいに先人達に敬意を表しているなどと言いたいわけではありません。

スポーツでの決定的な場面に於いて60年前の試合であろうと、2021年現在の試合であろうと、攻めと守りの秩序が崩壊した時に起きる形勢の逆転に、私たちのカタルシスが一瞬で炸裂するのと同じように、1921年の映画であろうが、1995年の映画であろうが、観ている私たちの瞳は、映画作家が作り上げたある一点に、あるいは複数点に、常に震え上がってしまうという意味に於いてです。

今や誰もが知るコケール・トリコジー(ジグザグ道3部作)の第3作目にあたる「オリーブの林をぬけて」は前作「そして人生はつづく」の中で登場した、大地震の翌日に式を挙げたという新婚夫婦のおよそ五分足らずのエピソードに焦点を合わせて撮られています。

瓦礫の山や落石で潰されてた車など、イラン大地震直後に当たり前のように存在していた現実の風景、光景、人からモノに至るまで被写体としてキャメラを向けられる以前には、それらが決定的な映画画面になる裏付けなど一切存在していないのに、編集によって、あるいは照明によって、あるいはアングルによって、それぞれの作為でかたちづくられていきます。

それらひとつひとつの画面により、サイレント映画を同時代の体験として生きる事のなかった世代の人間が、芸もなく発見の興奮に身を任せてしまうように、私たちの瞳は瞬(まばた)きひとつで時空を移行してしまうのです。

心底から心を動かされる神髄が、前述した木漏れ日が草原いっぱいに広がる不動のロングショットに凝縮されているのは言うまでもありません。

このトリコジーの最終話にまとう比類なき貴重さに触れた時、私たちの瞳がどれだけ耐えうるのか?

それをを語る術など私にはありません。