【"自分"との戦い】2022年76本目
朝鮮人学校に通う2人の在日朝鮮人を主役に置いた、希望と絶望の入り混じる青春物語。
この物語は、"我々は一体何者なのか"という人間の本質を探る、極めて重要な論点を与えてくれる。
在日朝鮮人の2人の青年は、朝鮮人であるという自覚と、日本語を話し日本に生きている日本人という自覚の狭間にいる。
まさにこの、身体と感覚が分離しているようなどっちつかずの自分自身に、いったい自分は何者なのかを問うという"未成熟な考え"が青春の悩みとなり、それに対して正しい方向性を教示してくれる大人も存在しないという、社会の問題性を含んでいる。
日本人と付き合っていると差別され、
朝鮮の祖父母の元に帰ってみたら、日本人だと差別される。
高野連に公式試合への参加を認められた朝鮮学校の野球部は、マスコミにもてはやされ注目を受け、一時は舞い上がるけど、
バイト場で自分が朝鮮人ということを公にすることはしない。
我々が学生時代の頃も、容姿や学業、恋愛、人間関係などさまざまな悩みは尽きないが、そこには確かに"自分の見られ方"に対する異常な追求や思い込みがある。
しかし、在日朝鮮人にとって、
それらは事実として迫ってくるために、
"自分の見られ方"という第三者を通じた客観視を通り越して、"自分の見方"という自分が自分をどう見ているかという超客観的思考(それが本来の意味での客観視であろうが)を強いられ、自分が自分でないものとして感じるようになってしまうのではないか。
人間は二つの選択肢があったら、
どっちかに決めなければいけないと思う。
そうしないと先に進めないと思う。
時には、振り抜いたバットがボールに当たるか当たらないかで運命を委ねても良い。
しかし、二つの選択肢を状況に応じて利用していくというのも一つの選択であろう。
それを不快だ、とか、インチキだとか、そのように片付けるのは"自分の見られ方"に固執しているごく一部の日本人なのである。青春の悩みをずるずると大人になっても引きずる"子どものような大人"から脱する必要があるのではないか。
我々は一体何者なのか、
これを機会に考えてみたい。