このレビューはネタバレを含みます
"Smoke (1995)"
第45回ベルリン国際映画祭
審査員特別賞を受賞した作品
観終わったあと
"感動的な気持ち"
"モヤモヤとした気持ち"
その両方が混ぜ合わさった妙な気分になった
というのも
このストーリー 非常に"嘘"が多い
→ポールに対し
ラシード(本名トーマス)と偽名を使う
→ラシードは父親は死んだと嘘をつく
→ラシードはサイラスにも偽名を使う
→ルビー娘は威嚇と虚勢を張る
→ルビー娘はオーギーの娘か分からない
→オーギーが盲目の女性に息子のフリをした
などなど
嘘が並べられ続けた結果
嫌悪する気持ちが先行するよりも
最終的に感動する気持ちの比重が大きい
コレは何故だろう?と考えると
1.登場人物達は寂しさを抱えつつも
自然体 且つ 等身大で生きている
2.目の前のその人に嫌われたくないという
不器用さや拙さがある
3.純粋に人を想う気持ちに焦点が当たってる
友情や愛情が前に出ている
そして
"Smoke"というタバコの煙こそが
気持ちの揺れを表している
辺りに浮かんでは消えていく
止めどころのなさを表現してる
オーギーは
>物事が起きるか起こらないかはその時次第
>何が起こるか分かると思った時は
>実は何も分かっちゃいねえ
>それがパラドックスだ 分かるか?
ストーリー全体に対する捉え方に関わる
会話を劇中でしている
ポールとオーギーのラストのエピソード
カメラワークが抜群で最高だった
2人を含め店全体を映していたはずが
ゆっくりゆっくり
オーギーの表情にフォーカスしていく
オーギーが14年に渡り
同じ場所で写真を撮り続ける
そのカメラはどこで手に入れたか
伝え終わったあと
2人がタバコを吸って
その煙が顔の回りを漂う
気持ちの動きとして煙は目に見えるが
すぐに消えてしまう
それぞれの人生が交差していき
間違いもあるけど真実でもある
オーギーが欠かさずしている撮影には
1日1日ごとの日常がカメラに収められている
写真を改めて振り返えると
移ろっていく風景や人物そして表情・光
写真の中には
それぞれの希望が一緒に写っている
"Smoke"とは
・単純にタバコの煙であり
・それぞれのキャラクターの気持ちであり
・止めどころもなく悪意のない嘘である
>信じる者が1人でもいれば その物語は真実にちがいない
脚本家ポール・オースターは語っている
淡々と日常を積み重ねて生きる
それこそが人生の素晴らしさである
と感じさせる映画
※ラストシーン
オーギーがポールに語ったエピソードの
一部始終が映像として流れる
息子のフリをして
盲目の女性の家を訪ねて
カメラを盗んだシーン
盲目の女性が
"息子ではない"
と感じ取り 嘘に気づき曇った表情が印象的
そのシーンには何とも言えない切なさがある