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ダークナイトのMUAのレビュー・感想・評価

ダークナイト(2008年製作の映画)
4.7
2回目。ノーランの描くこの作品は、愛や正義、混乱といった概念を具現化し、徹底的にその登場人物に落とし込み、それらを対立させている事が特徴的な気がする。彼らの根本は悲劇から成り立っていて(大切な人との別離など)、始まりに着目すれば皆同じである。愛憎は紙一重というがその通りで、その紙一重の戦いに共感できるからこそ面白さが増すのではないだろうか?
登場人物も比較的多めで、彼らが自身の人生経験を通して何の概念を具現化したキャラとして頭角を現すか、がわかるのがとても良い。根本的に通じる「悲しみ」を癒す基盤がゴッサムシティとなり、それを救うか、破壊する立場に回るかによって己を癒そうとする。彼らは悲しみを経験し、癒すためにゴッサムを扱う。そう考えるとゴッサムは競艇場の様な場所ではないか?
というぼんやりとした感想でした。この三部作をきっかけにDCコミックス関連にハマりそうです・・

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バットマンが存在するためには、ジョーカーが居なければならない。果たしてバットマンは善の心故に彼を倒す最大の機会を逃したか、もし彼自身がどこかで「自己存在の肯定のために」ジョーカーを逃していたら?
ジョーカーは存在しない。彼は映画上の全ての登場人物における本能・無意識の起爆剤としてしか存在しない。その証拠に彼自身が「無敵の人」であり、守るものがもはやない。彼自身も命乞いをしようともしない。
最初、ジョーカーは人間の「エゴ」ではないかと思ったが、エゴは”真実”に飲まれると悟った時、命乞いをするのでは?と思い直した。故にジョーカーはエゴを発動させる起爆剤、多分イブの林檎を誘導させた蛇のような”神使”であるのではないだろうか。現世がどのように動くのか、という試しを行う神の元に授かった命だと考えると、全く趣旨の異なる「シリアスマン」・・神による信仰心の試し、を連想してしまうのも面白かった。
やはり試されたのはバットマンだと考え直すと、「ダークナイト」の意味が最終的に誰の呼称に行き着くのかを見守った結果、やはり彼はずっと試されているのだと。そんな事をひしひしと感じました。
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