たわだ

ダークナイトのたわだのレビュー・感想・評価

ダークナイト(2008年製作の映画)
4.3
冒頭のジョーカーと一味による銀行強盗のシーンが圧倒的に素晴らしくこの映画のノワールにある種の品格を与えている。撃ち殺された一人が昔の悪党には名誉や誇りがあったと語るが、悪の倫理さえ持ち合わせていないジョーカーには虚しく響く。仲間を全員始末して銀行を後にする姿には軽快な清潔さすら感じる。
ジョーカーの悪は純粋で自律的な、完結性の極めて高い悪である。
社会のためでもなく感情的な私怨によるものでもなく、悪のための悪であり、ただ混沌を愛している。
実はこの特有な性格は映画『ジョーカー』を見たのちではブレてしまう部分がある。
つまり『ジョーカー』は彼をある文脈に位置付けることで私たちに理解可能な悪へと矮小化し、同情と共感の余地を提供してしまったからだ。もちろんだからと言ってそれぞれの映画の評価が損なわれるものでは決してない。しかし映画『ジョーカー』で描かれた彼の共通点には注目しなければならない。
それはアジテーターとしてのジョーカーだ。ジョーカーが仕向ければ善良な市民はたちまち混沌の中でルールやコードをいとも簡単に失ってしまう。土台を失った民衆の弱さや残酷さをあぶり出す触媒としてジョーカーが街中に火を点ける。
そして「市民はもはやスーパーヒーローを必要としていない」というのがこの映画の重要な主題である。市民を代表するデント、警官としての職務を全うするゴードンたち、最後までリモコンのボタンを押さなかったフェリーの市民たち。何人もの「民主的な」ヒーローたちが物語をドライブさせている。
ではレイチェルを失った後のバットマンの正義はどこを指しているのか。
実はここで描かれているのは正義のための正義、完結性の高い正義だ。それは市民のための正義ですらなくその純粋性が、ジョーカーを殺すことを踏みとどまらせる。そうしてデントの罪をかぶるのは自己の正当化に過ぎない、ということをおそらく彼自身が最もよく理解している。
このようにバットマンとジョーカーの鏡のような純粋性がお互いを成立させ、とりわけバットマンの完結性を揺るがし続けている。
テクニカルな部分ではジョーカーとのカーチェイスのシーンでBGMが一切なく、銃声、排気音、雑踏でシーンの基盤を構成したのは長尺で緊張感を保つために非常に効果的な判断だった。
また本作では前作で積極的に描かれたようなゴッサムシティのスラムや貧困層のCGを用いた直接的な描写は見られない。代わりに目線の高さからのショットが多く、洗練されたグローバル都市の中に埋没しているような感覚すら覚える。
この感覚は映画の冒頭で香港を舞台にする点でも特徴的だ。グローバル経済の文脈の中で、中国系資本の台頭とイタリア系、多国籍マフィアを取り囲む状況を端的に示している一方で、その都市の風景は極めてジェネリックで「どこにでもありうる」都市だ。この点が前作で際立っていた「ゴッサムの特殊性」から「どこでも起こりうる普遍性」へと、この作品のレンジを拡大している。
レイチェルを失った後のシーンでは映像の青ざめたトーンが何よりも雄弁で前作から大きく映像表現の奥行きを深めた。レイチェルに関しては前作のケイティ・ホームズの思慮深い演技が念頭にあったためにどちらかといえばオプティミスティックなマギー・ジレンホールは適役ではなかったように思う。
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