たわだ

クリーピー 偽りの隣人のたわだのレビュー・感想・評価

クリーピー 偽りの隣人(2016年製作の映画)
4.6
黒沢清は本当に奥行きのある空間を撮るのがうまい監督だと思う。
半ば放棄されたような空き地に隣接し旗竿地になっている西野の家の前の通路のような場所で門を隔てて二人が向かい合う時、そこには明確に領域と境界が存在していて西野は超えてはならない一線を超えるようにスタスタと康子のパーソナルスペースを犯す。不快感は募る一方で、モラルや警戒心を持たない犬は境界を軽々と超えて隣人との関係を取り持つ触媒になる。
事件現場の日野市の住宅街では高架近くには住宅が妙な角度で並んでいる、新興住宅地であればありうべき直行する敷地のグリッドが通っていないというだけで、ここは何か普通じゃないなという感覚=事件性がある。
そして高倉の職場のガラス張りの透明な大学のキャンパスは、極めてパーソナルな証言をする事件の被害者を迎えたときに、その透明の欺瞞が明らかになる。つまりそれは透明な壁のこちら側で起こっている被害者の証言とガラスの向こう側で起こっている大学生がたむろするキャンパスの風景という、日常的には全く相入れない二つのことが同時に起こっていることの潜在的な異常さ、居心地の悪さだ。刑事であれば密室性の高い取調室で聴取をする(実際映画はそこから始まる)しかし大学教員となった主人公が「趣味的に」被害者からの話を聞くとき、インタビューの対象者は外からの視線に晒される。いたたまれなくなった本多早紀は部屋中を動き回る、カメラも動く、高倉と野上もつられて動く、カメラが停止する、そしてまた動く、の運動を繰り返して段々と被害者の記憶が像を結び始める。
主人公夫妻の住宅内部は至って変哲のない築30年強ぐらいと推測される木造住宅だが、観ているこちら側は何しろ映画『cure』の経験があるため半開きのカーテン一つに、日常的な道具の配置一つに戦慄し警戒することになる。このような日常に潜む違和感を丁寧に撮った映画が成功しているかどうかは、観客がこの映画を観た後に自分の日常がこの映画を観る以前とは異質なものに感じるかどうかにかかっている。中には(この映画の主人公の元刑事のように)頑迷な自己流の倫理を持っておりなんら自身の生活風景が揺るがないという人もいるだろうが、まともな感受性と想像力を持つ者であればこの映画で描かれた日常と自分の日常を照合せずにはいられないはずだ。
ホラーっぽい演出や仕掛けや道具立てがホラーの要件ではないということ。大袈裟なことを言えばあらゆる映像は「本当は」予定調和を破壊して次の瞬間にホラー映像になる可能性を秘めている。そしてあらゆる空間は現場になり、あらゆる日常は事件になる可能性を秘めている。この作品はそのことを主題にしている。
今回、映画館という非日常的な環境で、限られた時間の中で観るのではなく、自宅で(合間に日常的な家事などの中断を挟みながら)観たこの映画の経験は、目の前のことに集中している一方で、常にぬるま湯に片足を突っ込んだまま徐々に体全体の熱が奪われていくような薄気味の悪さを湛えていた。つまり日常的なリズムと併走させて断続的にこの映画を観ることは非常に危険だ。映像で強固に植え付けられた違和感はだらだらと尾を引き生活の隅々を浸食していくことになる予感がある。
この映画を深刻に受け取らずに「ただただ香川照之が気持ちの悪い映画だったね〜」と明るくその場限りの体験にすることが重要だ、こういう映画は「映画として」形式的に消費するのがいい、しかし何よりもそれを容易にはさせてくれない監督の手腕と俳優の演技が圧倒的だ。
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