このレビューはネタバレを含みます
握手は愛の爆心地!Chapter1がもう苦手で苦痛だったけどそれ以降は総じて良かった。罪を積み上げていくようなボレロやゆらゆら帝国によるぺらぺらなサイケデリック、何より慈愛、愛憎が渾然一体となったような第七番の使い方が良かった…けどかけっぱなしで鬱陶しくもあった。女囚さそりは勿論、師匠の存在や修行はカンフー映画のようだし、見栄は戦隊シリーズ、首絞めやちんぽ切断は愛のコリーダ、学園生活はエヴァンゲリオン、静かな海とビル突入はソナチネっぽい。どこかファッション的な引用はもはや尊敬してんだか冷笑してんだか分からなくなってくる。どれもカルト的な要素を孕んでいて、所謂、狂信者の存在する作品群だとは思うけど。元になった事件云々という導入から始まり、スカートの中という非現実を覗くカメラ、ヨーコを閉じ込めた旅一座のワゴン、教団信者のランクの名称などメタ表現が散りばめられていて、言ってしまえば父の様子がおかしくなった辺りから精神病棟までのユウの視線は幻で、コイケの 私と同じ という言葉は洗脳によって二人だけの共通した世界を見ていたという事のように思った。信仰による洗脳は日常を変えてしまい、ユウもコイケも(神)父の洗脳によって誰もが共有している日常とは違う映画のような世界に生きている。繰り返される引用はそんな二人の見ている歪んだ世界の比喩表現のようで、突入した教団のビルの中で信者達が演じている空間はその事を印象付けていた。コイケは自死によって、ヨーコもユウもお互いが寄り添ってくれた海岸と精神病棟で洗脳から解き放たれたんだろう。ヨーコの偶像としてのカート・コバーンから感じる潜在的な希死観念や破壊衝動への崇拝から、肉体のあるさそりへ対象が移る事で人間らしく振る舞う事が出来るようになり、その信仰の移ろいで無機質で禁欲的な信仰と愛(欲)情を対比させていた。ユウもヨーコも崇拝こそすれど恋は知らない、まだ原罪のないアダムとエバで、コイケはその間に割って入り二人を誑かす蛇のよう。逆説的に擬似的な兄妹となったユウは寵愛を嫉妬することなく神に逆らい妹を取り戻した、それからコイケのオイディプス、他にもまだあるんだろうな。アニメ嫌いの監督がどういうつもりでエヴァを引用したのか気になった。MVのように安藤サクラが車内でインコを突き出すカットはマジでヤバい。