イスケ

マッチ工場の少女のイスケのネタバレレビュー・内容・結末

マッチ工場の少女(1990年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

マッチのライン生産の美しい流れから入る冒頭がもう最高。

現在のIT&AI社会も着地点が想像できないほどに異次元を極めているけれど、この工場システムがまぁ精密すぎて凄いこと。初めはIT社会に劣らぬほど、魔法のように感じただろうなぁ。

クイズ世界はSHOW by ショーバイの「何を作ってるんでしょうか?」を思い出したよ、逸見さーん。


カティ・オウティネンのほぼ一人芝居。
音楽以外はほぼサイレント映画。

相変わらずの無表情と、他のカウリスマキ作品と比べても贅肉ゼロに近しいシンプルなストーリーが際立っているのだけど、イリスの受けたショックや行動原理はとてもよく理解できて、抱きしめたくなる。


家族は、天安門の虐殺、シベリアでのガス爆発、ホメイニ氏の死亡という暗いニュースに一瞥もくれない。

そう、この作品はカウリスマキ「労働者三部作」の三作目。
底辺で暮らす者たちには、外側の世界など気にかける余裕もないのでしょう。


ヒモの継父もヤバいが、イリスにも常時危うさが漂っている。

ディスコでおばさんよりも売れ残ってしまった際、足元に大量の空き瓶がw
これは「枯れ葉」の大量の吸い殻よりも残酷だ。

その後、ドレスについて家族となんやかんやありながら、綺麗なアパートに暮らしている富裕層のアールネと出会い、彼ともなんやかんや。

彼が「これっぽっちも愛していない」と言い放つのは、純粋なイリスの気持ちを思えば心が痛むところもあるが、ディスコでの出会いなんてそんなものじゃないかと思う。
むしろズルズルと引きずり回さずに率直な言葉でリリースするわけだから、遊び方としてこの対応が正しいと考える人も数多いるはず。

ただ、それで話が終わりなわけではない。
背景にあるのは、恋ぐらいしかやれることがない労働者の懐事情の問題。
イリスも他に感情を逃すモノやコトがあれば、のちの凶行に及ぶに至らなかったかもしれない。

イリスの家にアールネがやってきた際、たとえ感じの悪い男であっても家族が気合いを入れて応対していたのは、娘と一緒になってくれれば貧困を脱出できるんじゃないかという目論見があったことは想像に難くない。

「でも私は鳥ではない
 地に繋がれた囚人さ」

劇中で流れる曲の歌詞が示唆していたのは、
「作業労働者は作業労働者のまま、土地を変えようがそれは変わらない」
という、当時のフィンランド労働者の息苦しさを感じる。

現代の先進国のように「場所を変えてやり直そう」みたいな考えは、夢物語に近かったのではないか。


最終的にイリスは家族と男という生き物全体を敵視する。そして復讐へと向かう。

この時に頭をよぎったのが、ゴダールの「パッション」で若かりしイザベル・ユペールが言うことを聞かずに工場内を走り回るシーン。
「パッション」でのイザベルは、言いなりにならずに自由に振る舞うことに快楽を感じていたように見えた。

本作におけるイリスも、ライン生産の仕事をこなし僅かばかりの給料を貰う繰り返しの日々よりも、復讐を重ねている時の方が遥かに生き生きしているように映った。


イリスは警察に逮捕されることになる。

マッチ工場のラインはイリスの不在など無かったかのようにマッチを作り続け、
イリスは変わらぬ貧困のループから刑務所へと解放されたんだろう。
イスケ

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