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カルメンという名の女のotomisanのレビュー・感想・評価

カルメンという名の女(1983年製作の映画)
4.2
 上映開始早々ジャンおじさんの病気入院が暴露され今後の映画事業に赤信号が点る?後ほど打ち明けられるが、先の映画製作での資金流用(費目偽装)がバレておじさん監督は白眼視を受け映画界から干された状態、そりゃあ頭もおかしくなるだろうよ。

 すると、現れたのが姪っ子で自分らが映画作りするから、と言い出す。そのロケ予定地、別荘のある海辺の砂を掘り返したら銀行で、金持ち等の預金を強盗するの展開。押し入る先は「ソシエテ・ジェネラル」?左派政権への当てこすりか。
 三八銃の警官をマシンガンで蹴散らしてお客ともども殺し放題、その金を元手に彼等は映画を作るんだそうだが、この姪っ子たまたま接触した一警官と何かが通じてしまったようだ。
 聞けばふたつの事を同時にできないというフランス人の性というのか、銀行強盗よりも警官との情交に囚われてしまう。ついでながら、相手の警官だけ後日逮捕されて出廷するが、その弁護が振るっていて公務と愛とは並立しないから愛の盲目性(つまり心神耗弱?)が優先するのは当然で因って無罪なのだそうだ。
 こうして、若年失業者を増やした姪っ子連は対日ポワチエ戦争真っただ中にもかかわらずホンダ車に乗って次なる犯行、金持ちの身代金誘拐を企てる。ところで、おじさんはSONY「音楽カメラ」?が手放せない。
 彼らは元警官の失対労働の当てもなく失業率20%を維持しながら、傍ら弦楽四重奏団の生演奏付き大ホテル続き部屋を映画製作事務所としてその本性を隠蔽する。だが彼らの目指すのは何なのか言葉足らずと先送りのせいでさっぱり分からない。

 こんな上っ面にゴダール監督は風刺だか皮肉だかを散りばめて当人は全編異次元人、この世での騙され役を引き受ける素振りだが、映画の玄人として冷ややかな視線を注いでもいる。映画が当たらなかったら姪っ子が悪かったと開き直るのだろうか。
 さらに、姪っ子連を出汁にして学歴格差や砂嵐サイコーな国営テレビ、国鉄へのコネ入社の時事問題、あるいは自らの狂気の戯言も絡めて製造業と先端技術開発の低迷、中距離核問題のアクセル・アンド・ブレーキといった国家的さらに国際的課題まで小ネタをちらちらさせる。
 こうして駆け出し連中を手玉に取って、平気で誰でも殺す集金テロ集団に見立て、肝心の革命ヴィジョンは五里霧中とその低能ぶりを笑う腹らしいが、彼らのそのおててもお尻も汚いのだってこの世界自体の汚さ故とまで面の皮厚くぶち上げる。
 しかし、それはそれ、カルメンとスペイン風を名乗ってフランスで一騒動のいけない姪っ子だが俺の姪っ子だから受賞は当然さとも嘯くに違いない。こんな上澄みを掠め取る目論見に若者らの抗弁主張を封じるなら皆殺しに越したことはない。どこかの国のマオイスト、食わせる飯など無い相手は革命の餌食にして呉れようと言う誰かと似ていないか?

 狂気の仮面で知らぬ顔を決め込みつつ、狂気以外にあの成果、それが百花斉放だの大躍進政策以降もたらされた事態や文化大革命であり、世界的大監督によるシミュレーションで得られた小品映画内の穀潰し共の死亡率である。まさに数字に注目せよ。
 だが、そんな人類的狂気無くして人類的成果、戦果、惨禍?を得るには至り得ず、かつ、もとより非民主的世界なあの地でのたった一人の提唱に基づく十億人民への効率的統治を驚嘆せざるを得ない監督は深慮?の末、ものごころついてより半世紀、ありったけの溶液中からウーンと念じてホゥ「カルメン」か!と、こいつの析出に至ったと認めるべきなのだろうか?「気でも狂わにゃ思い付かんゼ」という監督本人の居心地悪さ?という事だろうか。さもなくば戯れにシネマなどすまじだ。
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