レインウォッチャー

ペパーミント・キャンディーのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
映画とは《時間芸術》なんて呼ばれるわけだけれど、映画を観ているあいだに観客が体験できる時間は二種類ある。現実(映画の外)で流れる時間と、映画の中で語られる時間だ。

前者は基本的にコントロールできず、過去から未来に向かって直線的に前進していくのみ(※1)。一方、後者は映画の表現によって如何様にも変わり得る。同じ90分や120分という映画外時間の枠内で、観客は物語とリンクすることによって、一瞬でも一万年でも疑似体験することができる。この二層構造に、映画の根本的な魔力がある。

だからこそ、映画の作り手たちは様々な表現の工夫に挑戦してきた。C・ノーラン監督みたいに、時系列のトリックをライフワークとすらしている向きの人もいる。
ここで重要なのは(ある程度ストーリー映画としての前提になるけれど)、どのようにその《運び》から観客をロストさせないか、だと思う。複雑化が進むと付いていけなくもなるし、そもそも技巧が先行しすぎれば集中力や興味が薄れてしまう。中には敢えてロストさせようとするような挑戦を仕掛けてくる作品もあれど、それらもまた原則を理解したうえでハズしにかかっていると考えるべきだろう。

前置きばかり長くなったけれど、今作もまた時間描写にひと捻りのある作品だ。
河原で行われている何かの同窓会らしきピクニック、そこによれたスーツ姿の男がフラフラと乱入してくる。男はどうやら旧知の仲ではあるらしいものの、明らかに心の均衡が危うい様子で、「からっぽ」だ。やがて彼は「戻りたい!!」と叫びながら、列車の迫る線路に仁王立ちする…

その叫びに応えるように、映画は時制を遡り始める。いくつかの章(ブロック)に分かれながら、まるで男の走馬灯を見せるかのように、彼がなぜそのような行動をとるに至ったのかが逆順で解き明かされていく。
軍や警察での体験が、彼の心をどのように少しずつ壊していったのか。裏切ったこと、裏切られたこと。踏みにじったもの、踏みにじられたもの。そして、半生を通して胸の片隅を占め続ける、かつて恋仲だった一人の女性の存在。

逆行しているとはいえそこまでトリッキーというわけでもなく、強力なミステリがあるわけでもないのだけれど、こちらの興味がロストすることはない。それは、時制が移り変わりながらも各章に細く針を通すような要素が(メインの話の筋を追う以外にも)散りばめられているからだろう。

それらは五感に訴えかけて、刷り込みのように働きかける。
たとえば、グリーンを基調にしたテーマカラーの《彩り》。線路を走る列車の《音》。河や雨や血と様式を変えながら繰り返し現れる水の《冷たさ》。ゆれる花の《香り》。そして、タイトルにもなっているペパーミントキャンディの《味》…

こういった要素が、時と場所が移るにつれ段々と人格すら変わっていくように見えても、やはり同じ「彼の」人生なのだということを感覚で理解させる。ちょうど、途切れなく続いて行く線路と同じように。この導きによって、わたしたちは彼のごくごくパーソナルな絶望を自然と追体験するのだ。表面上の技巧以上に、こういったケアにこそ今作の豊かさ、時間感覚をデザインするにあたっての深い理解があるように思う。

そして、やがて彼と共に結末まで辿り着いたとき気付くだろう。彼は「戻りたい!!」と叫んだけれど、果たしてどこまで「戻れば」正解だったのか?あの出逢いすら、否定してしまうことになるのではないか?結末と冒頭、主人公の目線と表情が同期しているいわば円環構造的な見せ方をとることによって、このような運命論的発想は後押しされる。

現実の(映画外の)時間を戻すことはできないけれど、映画の中ではそれができる。しかし、今作では映画の中でも取り返しのつかないことはそのまま残され、受け容れるしかないと突き放されるようでもある。それを含めて「人生は美しい」と言うことは厳しさなのか、あるいはそれこそが優しさなのか?わからないまま、わたしたちは映画の外の線路へと戻される。
確かなのは、彼と共に傷ついたことであり…今作は、そのような体験をさせてくれる丁寧で密な映画ということなのだ。

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こんなアカウント名を名乗っているだけに、わたしは映画の中の「雨のシーン」をこよなく愛している。今作にはそのベスト10(いや、もしや5?)に入れたくなるような場面が見つけられて、ここ数日とても機嫌が良い。

何をしてる?、雨を見てるの、一緒に見よう、お断りよ。

ちなみにオールタイム雨ベストは『インヒアレント・ヴァイス』。

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※1:厳密には、体感時間(カイロス)は伸縮し得る。カイロスって、映画内時間と映画外時間の中間、二つの提供される外にサンドされた内にあるような気もするな。熟考せずテキトー言ってますけれども。