ボブおじさん

國民の創生のボブおじさんのレビュー・感想・評価

國民の創生(1915年製作の映画)
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〝映画の父〟グリフィスの名を不動のものとした映画史上に残る記念碑的大作。黒人奴隷と彼らの解放、南北戦争、リンカーン暗殺、そしてKKK。

アメリカの歴史の一部を壮大に描くそのスケールの大きさ、後の〝あらゆる〟映画の基本となったクローズアップやカットバック、フラッシュバックの撮影技法を既に完成させている。アメリカ映画のみならず、世界の映画史に残る映画である。

しかし、一方で、白人の視点のみで構築された物語は非常に差別的であり、白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)を英雄視し黒人を完全な悪役として描写している。このことは大きな問題として、現在だけでなく公開当時にも抗議の声があがり、大規模な上映中止運動が行われた。今日では本作品は〝アメリカ映画最大の恥〟と言われることもある。

以上がこの映画についてよく語られる二面性であり、〝傑作にして問題作〟と言われる所以であろう。この映画についての評価は様々であり、個人の考え方はもとより、映画を観た時代やタイミングによっても評価は変わってくるだろう。

個人的な感想としては、この時代における革新性や創造性に思いを馳せることはできたが、それは書物などから得た知見を再確認したに過ぎず、当時の観客が腰を抜かして驚き、血が逆流するほどの興奮を味わうことは出来なかった。この感覚は初めて観た時代が下れば下るほど強くなるのではないだろうか?

一方、後半の黒人に対する差別的な描写やKKKを英雄視する内容は、今日的な良識に照らし合わせれば、嫌悪感すら抱かせる。この感覚も時代が下れば下るほど強くなるんじゃないかと思う。

つまり簡単に言えば、この手の作品は、時代が経つごとに当時評価されたポイントが薄まり、違和感や考え方の古さが際立ってしまうことになる。

それを防ぐには、その作品が出てくる前の作品や時代背景を知ると同時に、当時の撮影技術や音響効果を考慮して、その映画が当時の観客にどれほどの衝撃を与えたかを想像して映画を観るという、めんどくさい作業をしなければならない。

ところで映画は誰に向けて作られた物なのか?
そんなの〝観客〟に決まっていると答えるだろう。
では〝観客〟とは誰か?
広く捉えれば、いつどこであろうと〝その映画を観た人〟なのだろうが、果たして作り手は現代の我々を観客として意識しているだろうか?

行ったこともない外国や100年後の観客の意見も興味深く、聞いてみたいと思う作り手も多いと思うが、本音を言えば観客とは、〝今、この瞬間を共に生きている人々〟なのではないだろうか?

更に言えば世界市場を意識する前の時代の作品は、〝今を共に生きる自国民〟に向けて作られたものではなかったのか?

その観点で言えば私を含めた今の観客は、この映画を含めた古い映画の作り手から見れば〝想定外の観客〟だ。言い方を変えれば、所詮〝外野〟に過ぎない。

「國民の創生」は、空前の大ヒットとなり、当時の観客から多くの賞賛と少なくは無い批判を受けた。これがこの映画に対する真っ当な評価ではないのか?

当時の人々が今の人々と比べて、特段頭がいいとも悪いとも思わない。時代と共に正義や倫理の基準は変わる。100年後の世界から今日的な倫理観・良識・コンプライアンスを振りかざし、この映画を非難したところで〝お前たちのために作った映画じゃない〟と一蹴されそうだ。

それでも我慢ならんと、これ以上欠席裁判を続けるならば、グリフィスはあの世からこう言ってくるのではないだろうか?
〝今すぐ俺に金と役者と少しばかりの時間をくれ、お前が腰を抜かして、血が逆流する様な映画を作ってやる‼︎〟😅



〈余談ですが〉
それにしてもジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」からわずか12年後に、この映画が公開かれたことに驚きを禁じ得ない。

多くの作品が短編だった時代にこれだけの大作を信じられない完成度で作り、一気に映画を芸術の域に高めた。〝映画の父〟と呼ばれるのも納得である😊

本作に限らず例え名作と言われても、古い映画の中には言いようのない違和感を感じる作品も少なくない。それでも出来る限り過去の名作は観ていきたいと思う。

ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーは、こう言っている〝過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる〟。