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トイ・ストーリーのaのネタバレレビュー・内容・結末

トイ・ストーリー(1995年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

・本作は今では言わずと知れた評価がなされており、ピクサーが手がけた長編映画シリーズの1作目であるが、同時に全編がフルCGで製作された映画でもある。更に、アカデミー賞において初めて脚本賞にノミネートされたアニメーション映画だ。


・本作を製作した頃、まだ駆け出して間もない初期ピクサーにはスタッフがおよそ110人程度しかおらず(2019年『ライオン・キング』制作時には800人程度)、そして四六時中絵を描いて引きこもっているような社員ばかりの、オタクが寄り集まったスタジオだったので、一度スタジオで作業を始めると引きこもって出てこない社員も多く、定期的に散歩、買い物、社内旅行、合コンの手配まで会社が補助してあげていたらしい。


・まず見返していて思ったのは、面白すぎる。とりあえず、本作では特に物語性を作り出すためのエピックとして、おもちゃの性質や「生きていることを見られたらアウト」というルール説明、大切に扱われないおもちゃ達の末路等まで、実は多岐に渡って説明が連続しているはずなのだが、劇内のキャラクターの造形と、繰り出される強烈でセンスの光るジョークたちの引力が凄すぎて、気づいたら30分くらい観てしまっている。何も前後関係を知らなかったとしても、ふと観たシーンそれぞれが必ず独立して面白い要素を秘めているのだ。


・特にキャラクターが全員可愛く魅力的という点には、ジョン・ラセターとスティーブ・ジョブズ(よりによって本作をプロデュースしているのがジョブズというのも、ちょっと信じられない)のカリスマ性としか言いようがない部分があり、そしてそれこそが、本作が結果的に「スター・ウォーズ」や「ディズニープリンセス」のシリーズに匹敵するほどの拡張性を持つことになった契機なのだと、痛烈に感じる。


・自分が本作に出てくる中で最も好きなキャラクターはハムで、最初バズがやってきた後「生まれは?シンガポール?香港?」と、アジアの大量生産ネタをぶっ込んでくるところでもう好きになった(いわゆるギークと呼ばれる、オタクの中でも知識偏重で、かつうるさ型に近い人のモチーフ)。でも、改めて観てみると1作目だとそこまでギークネタっぽいものは登場しないのだが、ハムに関しては2以降で格段にギークとしての強度が増している。


・(ジョブズがギークだったからだと思うけど)本作や『モンスターズ・インク』等、初期のピクサー作品は全員がギークっぽいものをジョークとしてに仕舞い込んでいるきらいがある。例えばレックスが自分の出身地を答えるシーンでは、最初見栄を張って「僕はマテル社」と答えている。マテル社とはバービー人形を生み出したおもちゃ会社の金字塔のような会社なのだが、その後「いや、本当は借入資本で(マテル社に)買われた中小企業さ」と訂正する。超面白い。ジョークとして最高。


・バズがシドの家に潜入したとき、テレビで自分がおもちゃであることに気がつき、そこでアームのボタンカバーをパカっと開いたら背面に「MADE IN TAIWAN」と書かれているのも、あるあるネタとして本当に良かった…


・リトルグリーンメンがUFOキャッチャーのことを「神の見えざる手」(これも経済ネタで、超面白いが割愛)と理解していて、アームの意思によって選別されているというような信仰心を持っているとか、この80分足らずの映画でサラッと描かれる内容とはとても思えない(普通の監督ならこの描写だけで30分くらい引きずってもおかしくない)。何日考えたらそのような卓越したアイデアが出てくるのだろう…


・シド・フィリップスは、おもちゃを分解して奇異な作品を作ることで当時有名だったピクサーの社員から着想を得ている。ピクサー社内におけるシドの人気は、トイストーリーのキャラクターの中でも最も高いが、それはおもちゃを好きなように改変して遊び尽くすシドというのが、自分たちの幼少期と重ね合わせられるからだろう。


・シドの家庭がなぜか部屋の外装からして大体のものがボロボロに壊れたまま放置されていて(ベッドのフレームに錆びた鉄格子を巻き付けてあるのはパンクロックの演出としても行き過ぎていて、子供の頃から怖かった)、また彼の作る作品がゲテモノやガラクタ、破壊衝動に忠実過ぎるものばかりなのは、「クリエイティビティは能力として下に見てもいい」という20世紀の風潮を露骨に反映していて、今見るとかなり可哀想になってくる。ちなみに私はシド側の人間です。


・更に本作においては、物語としても大変素晴らしい。ウッディが最初バズに対して嫉妬心を向け続けており攻撃的で、バズも自分が本物のスペースレンジャーであると勘違いをしていたのだが、次第にお互いの中で内省し、自分の中の自我と向き合った結果、互いに手を取り合うことができる。なんていい話なんだろう。それをセリフではっきりと見せているのが、ウッディが檻の中で「君だけが行けよ」と諦めるシーンだ(このセリフで全員に分かるようわざわざ要約してくれるのもディズニーならではで、『ダンボ』でのカラスに向けた演説シーンも個人的には大好きなので、ぜひもったいぶらずにたくさんの映画でやって欲しい)。ここで何回も泣いてしまう。


・昨今のピクサーは『インサイド・ヘッド』に始まる紀元前由来の精神世界(ギリシャ哲学や仏教など、これまでイスラエル起源のキリスト、イスラム、ユダヤが無関心で放置してきた、内心と自己というテーマ)を描くことに非常にフォーカスしており、例えば『ソウルフル・ワールド』はもろに仏教的で、最終的に主人公のマインドフルネスが自己実現では叶わないという思想観に目覚める物語だったし、『マイ・エレメント』はデモクリトスの四元素説をそのまま広げていた(万物は4つの火水土風の4つが相互に連関して成り立っているとする学説)。対して初期のピクサー作品はもう少し直裁的で、本作や『モンスターズ・インク』『バグズ・ライフ』等、どちらかと言えばリアルな世界を拡張させた先にそのままパラレルな異世界が広がっている、とする描写が多い。


・しかしどれにも共通して言えるのは、「この世界の延長(もしくは意識の内側)には、パラレルな世界が広がっている」ということを繰り返し主張していて、そしてそれは本作が最後、「おもちゃの世界がこちらに接近してきた(気がする)」という素晴らしいオチを迎えることから変わっていないように思う。


・ところで、1作目からしておもちゃの世界における(無意識的な)不文律というのは明らかに「おもちゃ同士が手を取り合う」というルールで、これは西暦以前、つまり資本が発生する以前の、旧石器時代とかのコミュニティや現在の一部原住民の文化圏を意識して作っているはず(例えばそこでは、狩りに出かけて取ってきた肉や、採れた木の実は何も対価や報酬、さらには言葉の交わしすらなく、当然のように全員に分け与えていたことが明らかになっている。ジョブズは20歳ごろ自給自足のコミューンで牧歌的な生活をしていたヒッピー代表のお方なので、本作の類似性もそのようなコミュニズムに基づいた狙った世界観なように思えてならない)だが、4作目ではあまりに一気にこれまでの世界観が反転して、自分がどう生きていくかという実存的な思想になってしまうので、見返していてもやはり違和感があるように思った。


・総評。やはり名作の起源となる1作目は、どんな映画にしても大体「超」がつくほど面白いのですが、本作は映画的にもほぼ満点と言って差し支えない出来です。作品の面白さというのはまさにこういうことで、CGのクオリティや長さ、映像美では超えられない普遍性があるように、改めて実感しました。もう一度みても面白いと思うし、同時にここ最近面白い映画というのは、90年代~10年代に比べたら企画単位で明らかに減ってしまっているのだなあとも感じました。どこかでジョブズが生きていないかなあ。
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