面白かった。
別人として人生をやり直すことの誘惑とはつまり、今の人生への後悔や若き頃への妄念であり、ファウストの如く老人を後戻り出来ない選択を迫らせる。
本作で最も面白いのは、その会社の提供する「別の人生を送る為のサービス」のシステムの描かれ方であり、それ自体の露呈させる「やり直すことの限界」にある。
老人は若い肉体でかつての夢である絵描きとしての大成を手に入れる。
しかし彼はその肉体を行使するだけの若い精神性を持たず、絵描きとして大成するだけの技術力がない。全ては見せかけに過ぎない。その見せかけを成立させるのは、その会社による徹底されたアフターケアで、執事や邸宅、絵画もそうだが、何より恋人や生まれ変わるための儀式(ワインのやつ)を手厚く提供されることで彼はウィルソンになっていく。
ファウストもそうだが、大概男が若返ると欲望は若い恋人に向けられるようで、何だかさもしいなと感じた。
ただそれらの手厚いアフターケアも瓦解してしまう。やはり内面と外見の不一致に人は耐えられないという、アンジェイ・ゾラウスキー的な結論がそこに見えてくる。企業もそのことが分かっているからこそ、周りにいる人間全てを企業陣で固めて、《人生》を成立させようとしている。あまりに効率が悪く、そのそもそもの限界があるのだが、盲信してそれが履行されているという所に恐ろしさがある。
映画を通して、如何に人が会社に供給され、どういう仕組みで死は偽装されていくのかが詳らかになるのも面白い。
チャーリーの謎の電話も、誰が代わりに死んだのかも、そしてウィルソンの末路も全て、企業のビジネスのサイクルの一部でしかないというのが、ファウストにはない視座であり、見事な現代劇へのコンバートになっている。
鋭い眼差しなシーンとして印象的であり、主観ショットもまた、その鋭い眼差しが向けられる先として使われる。この主観ショットこそがウィルソンとアーサーを同一視する内側のからの《視点》になっている。