けー

野のユリのけーのネタバレレビュー・内容・結末

野のユリ(1963年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

Amen, Amen, Amen!

なぜだかわからないけれども「ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ」を思い出してしまった。

シドニー・ポワチエは車でアリゾナを自由に旅する若者ホーマー・スミスを演じている。

車で気ままに旅をしていたホーマー・スミスは車の故障で水をもらいに一軒家を訪ねる。そこにはベルリンの壁を超えて東ドイツからやってきた5人の修道女が住んでいた。彼女たちには司祭のために教会を建てる使命があったがいかんせお金も何もない。院長のマリアはホーマのことを神が遣わした労働力とみなし、ホーマに屋根を修理して欲しいと頼む。ホーマは賃金を払ってくれるならと屋根を修理するが、お金のない彼女たちがお金を払えるはずもない。

表面的にはとても面白いコメディだ。 賃金を払ってもらえないまま、ズルズルとミサへの車での送迎や教会の建築などをやらされることになる。

シドニー・ポワチエ演じるホーマ・スミスはとんでもなくチャーミングで、修道女たちに英語を教えたりするシーンとかあるのだが、もうポワチエ先生に英語教わりたいー!!!💗な気分にさせられる。

全ては「神様のおかげ」で「ありがとう」の一言すら言ってもらえないホーマ・スミス。

彼がタダ働きで教会を建築することに同意したのは彼には夢があったからだ。

もしも学があれば建築とか自分で何かを作る仕事につきたかったと。

彼はめちゃくっちゃスキルフルで、重機の操縦も得意。現場監督しての能力にも優れている。 なんというかもうパーフェクトなのだ。

そして教会が完成し、初めてのミサが行われる前日に彼は去っていく。

おそらくこの映画の意図は言語や文化は違えど、キリストの名の下に一つになって協力し合えるとかまぁそういう感じなんだろうと思う。

そこまで宗教的意図はなくても人々の善意によって素晴らしいことができるとかどうとか。


それでもホーマ・スミスが誰の目の触れない塔のてっぺんに自分の名前を刻みそして去っていくというのは、コンストラクションだけやらされ、そこに居場所はもらえないアフロ・アメリカンな図に見えてしまって。


この映画がリリースされた1963年はキング牧師が「I have a dream」のスピーチをしたワシントン大行進があった年だ。セルマの行進は1965年。2021年現在もアフロ・アメリカンの人たちはBlack Lives Matterと拳を突き上げて人種差別はやめてくれと叫ばないといけない。

そういったことをついつい考えしまう。

ラスト、歌いながらさりげなく去っていくホーマーが切なく。

ホーマーにとっては自由であることが大事なのでこれでようやく立ち去れて良かったと喜んであげればいいことなのだとは思うのだけれども。

とても面白かったです。

もう当分「Amen, amen, amen」が頭から離れませんね。
けー

けー