レインウォッチャー

ポエトリー アグネスの詩(うた)のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
映画における《語り》の、ひとつの極地を見た気がして震えた。それは、やがて映画を含めた創作の本質へと届き得るものでもある。

今作には大まかに二つのラインがあって、並行している。
①ある少女の死にまつわる事件の顛末についての話 と、
②一人の高年女性(主人公)が一遍の詩を書こうとする話。

①②いずれにも主人公ミジャ(ユン・ジョンヒ)は深く関わるわけだけれど、問題はどちらが主でどちらが副とするか、だ。
通常であれば①のほうが明らかにストーリー的な強度がありそうなところ、今作では逆。①を背景に追いやって、静かで地味な②に寄り添い続けるのだ。まるでハーモニーの響きだけでメロディを確かに聴いたかのごとく錯覚させるような手腕といえて、やがて最後には二つが合流し、静かながら大きなうねりとなって胸を満たす。

イ・チャンドン監督の前作『シークレット・サンシャイン』でも強く感じたことなのだけれど、彼のストーリー進行は時系列の処理が大胆だ。シーンが移ると意外なほど時間が経っていて、物事や登場人物のステータスも変化している、なんてことがままある。
この時にはドライで冷たさも感じさせるような手法(しかし決して不自然とは思わせない情報提示の巧さ)は、今作でも①に顕著。②で、ミジャの静かに枯葉が積もっていくような感情の歩みに沿っているうちに、①のほうではあれよあれよと事態が進んでいってしまう。

今作において、これは単にテンポを良くするといった効果に留まらず、ミジャの心境ともシンクロして②さえも補強しているように思う。医者から初期のアルツハイマーを言い渡されたミジャ、その戸惑いと焦りは①で直面を強いられる事態の重さと合わさって、彼女を世界から「取り残されて」しまったような気持ちにしたのではなかっただろうか。

ミジャを見ていると、こちらも時折彼女が何を考えているのかロストする。あるいは彼女自身もわかっていない、曖昧な意識の中に沈んでいるような時間。それは病の影響とも取れるし、それも含めた彼女の《逃避》のあらわれ(※1)であるようにも思う。
この視点もまた、『シークレット〜』や『オアシス』の延長にある。イ・チャンドンの映画では絶対的な《他》に安易な甘えを許さない。わからないものはわからないままそこに置き、隔てる。しかしそれはただの悲観・拒絶ではなく尊重であり、その余白の先を想像させる推力を信じていると思わせる。

ミジャが取り組む詩作についても、同じことが言えるだろう。
ふと通うことになった詩作教室、そこで「詩はあらゆるところに見つかる」「本当の意味で見つめることが大事」(※2)と教わるも、彼女はなかなか意味が掴めず書き出すことができない。加えて、彼女は病の影響で単語をぽろぽろと失っていくわけで、詩作は単なる趣味を超えて彼女が生きたひとつの証を残せるかどうか、といった意義・重さを帯びてくる。

そんなミジャがついに詩を掴み取るのは、見つめるべき物事を、勇気と誠意をもって直視した時だった。見つめて、想像して、はじめて詩を通して世界との繋がりを理解する。わたしは、これはイ・チャンドンの(いや、彼の作品に限る話ではないか)「映画を観る方法」「映画にできること」でもあると受け取った。(※3)

ラストシーンで、ミジャが拾い集めた言葉はいつしか別の人物の声と重なっていく。その人物は、きっとミジャが話をして分かりあいたいと最も思い、そして決して叶わない人物だ。しかし、詩を介すことで彼女はその永遠に隔った人物とリンクして、思いを代弁したり、自分自身や他の誰かを少し救うことができたのかもしれない。
わたしたちが映画(創作物)を観るときの可能性も、まさに此処にあるのではないだろうか。もう会えないあの人、明日会うかもしれない誰か、いま隣にいるあなたと、話をする「言葉をもらう」ために。

今作の開幕と結びは、共に川面である。雨や小さな支流に分かれた水もやがては本流にまとまり海へと向かうように、わたしたちの触れた映画や物語や詩は、いつしか集まって糧になる。それをささやかでも次の誰かの支流に繋げられはしないかと、わたしはこれを書いているのかもしれない。

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※1:ミジャは、事件のあらましの他にも、自身の病の実状や孫・娘との関係等々ところどころで直視することから「逃げて」いる人物だ。

※2:この教えはどこか『シークレット〜』で探った神の存在を引き継いでいる。林檎も出てくるし。

※3:こう思うと、劇中の若手詩人が口にする「詩はもう死んでる」という言葉は別の響きをもってきこえてくる。