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蒲田行進曲の教授のレビュー・感想・評価

蒲田行進曲(1982年製作の映画)
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本作は自分の原点のひとつ。
小中学生の読書体験として、原作者兼脚本のつかこうへいの作品は大きく影響を受けてしまっている。
それ故に、なのか現代の「PC」に端を発した「倫理観」がいかに美辞麗句で固めた欺瞞でしかないか、というのを本作を通じて感じたりもする。

まずその倫理観の問題。本作で描かれる銀四郎(風間杜夫)、ヤス(平田満)、小夏(松坂慶子)の「三角関係」におけるものが「女性蔑視」とも受け取られるのは理解できる。
また映画業界における「ブラック」な環境。スターと大部屋俳優の関係性が生み出す理不尽。
などなど。

しかし。物語や表現の世界や、それを送り出す側の世界も、我々と同じようにそう単純ではなく、誰しもが「正しくなさ」を抱えて苦しみながら生きていることを表現することの方が「政治的に正しい」メッセージよりも大切であると思う。常に物語の世界で「倫理観」を照らし合わせて生きている現在の世界の方にこそ違和感は強く感じる。

それを踏まえて言えば。
本作の「男女」の物語はとても残酷で悲しい。自分に正直であることを体現する銀四郎は、ただただ正直に生きているだけなのだが、まさにPC的に見れば暴力的で倫理観のないサイコパス。
その銀四郎から小夏とお腹の子を押し付けられたヤスは「真面目で可哀想な気の弱い人物」に映るかもしれない。
ましてや自己中心的な男に、あろうことか甲斐性のない別の男を押し付けられた小夏は最も「弱者」で悲劇的に映るかもしれない。

しかしながら。本作が描いているのはそういった表層的な「正しさ」ではない。
誰もがそれぞれの立場で、その時々の感情の中で正しくもあり、狡くもあり、またデリカシーのない存在であるということ。

銀四郎の立場を取れば、自らが映画スターであることを引き受けた上での当然の選択であり、その「役割」に邁進するあまりに人間的感情との矛盾が発生しトラブルを生み出してしまう。
ヤスが大成しない理由は、極端なまでの自主性のなさでもあり、それ故に極端な安請け合いによって自分を追い詰めていく。
小夏もまた「スター女優」としてのプライドや意地、自らが思う「女性らしさ」を頑なに演じている節があり、環境の抗えなさだけでなく、関係性や個人の抱える「呪い」に翻弄されているのが何より悲しい。

本作においては。
その演劇的作劇と、過剰な感情演出のエモーションを引き出せるだけ引き出した上で「虚構」であるが故の「リアル」を提示するべく演出されている。
現実ではあり得ない人物の行動。その感情の表現の中に、映し出されているのは登場人物たちの表現された「感情」そのものであり、それが切実に昇華されたハッピーエンドをぶった切るようなカーテンコール演出のギミックは賛否があるかもしれない。

とはいえ。ドラマとしては血が通った良質な作品であることは間違いない。
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