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復讐するは我にありのKuutaのレビュー・感想・評価

復讐するは我にあり(1979年製作の映画)
4.2
今村監督は「神々の深き欲望」で借金を抱え、もう役者を使うのは懲り懲りという気持ちだったが、今作を撮り始めたらあまりにみんな良い演技をするので元気を取り戻したらしい。監督らしいリアリズムと、生々しい雰囲気、細かな演出がそれを支え、全く集中が途切れずに楽しめた。

連続殺人事件のノンフィクション小説をベースに、監督による独自調査やアレンジも加わり、殺人と詐欺を繰り返した榎津巌(緒形拳)の逃亡生活を描く。日本版キャッチミーイフユーキャン。

厳格な父・鎮雄(三国連太郎)が繰り返す欺瞞への怒りが巌の行動の根本にあったのだろう。巌の妻・加津子(倍賞美津子)は鎮雄を誘惑するが、鎮雄は平静を装い、別の男をあてがう。鎮雄は人は殺さないが、犬を生き埋めにし、トドメは加津子に刺させる。警察との最初の面会で、鎮雄の応対は丁寧だが、顔はガラスの向こうにあるため歪んでいる。

(実話ベースの映画というスタンスの表明なのか、窓や木の間など、フレーム越しに人物を見る構図が散見される)

五島列島のクリスチャンだった榎津家は、戦時中に島の象徴である「船」を日本軍に接収され、天皇を神として崇める事を強要される。権力に屈した鎮雄への疑問が、巌をあらゆる規範から逸脱した行動に駆り立てる。
なので、タイトルは「復讐は神の手に委ねなさい」という意味の聖書の引用らしいけど、巌が復讐したい相手は父であり、神であるとも取れると思う。

島を出る船でおにぎりを頬張り欲望を満たす巌少年は、赤い浮き輪を海に投げ捨てる。何度も登場する「輪」は絞首刑のイメージであり、巌が抱え続ける罪の意識だろう。

島を離れた榎津家は「温泉」宿を営んでいる。殺人を犯した巌は海で偽装自殺する。船と海を奪われている巌は、戦後日本社会の象徴としての「電車」で各地を転々とする(服役中に加津子を抱いた国鉄の駅員から金を毟り取る。このシーンはコメディ調で笑えた)。彼の関わらない世界にはヘリコプターが飛んでおり、映画のラストでロープウェイに乗る。

男を駆動する力としての「女」は、やがて老いた母親となり、家族の足かせとなり、利用される。楢山節考だなぁと。息子の保釈金を厳に騙し取られる可哀想な母親も出てくる。

巌の母親とハルの母親(清川虹子)の対比。巌の母親は溺愛する息子に金を渡す。この関係には鎮雄のような厳格さがまるで無い。恐らく鎮雄は家族内で孤立しており、加津子はそれを見抜いている。巌はハルの母親からも金を貰いそうになるが、それを拒む。

ハルの母親は競艇=水とセックス(を覗く事)が好きな点で、海の人間である巌と近い存在だった。競艇は戦後日本によって制度化、矮小化された「欲望の海」と言えるかもしれない。

2人で競艇に行った帰り、彼女はホースで手を洗う。小便で血を落とす冒頭の巌の反復になっている。終盤にもう一度小便が登場するが、このシーンはビビった。

彼が決定的に絶望したと感じたのが、養殖場のシーン。狭い水槽で蠢く大量のうなぎと頭上の輪っか、川に逃げ出したうなぎの死。巌は自分やハル、ハルの母親に待つ運命を改めて突きつけられる。

父への怒りがベースにあるとはいえ、詐欺で儲けている彼が殺人を繰り返す理由を映画ははっきりと示さない。ただ、彼の殺人は体制側の人間から弁護士、社会のはみ出し者へ、確実に対象が移っていく。ここに、彼の未来に対する絶望や、厭世観にも近い心境が出ているように思える。島の獣性が社会に抑圧された話と解釈すれば、神々の深き欲望と同じテーマとも言える。84点。
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