久々に観れてうれしい。「蛇の道」や「蜘蛛の瞳」と全部頭の中でごっちゃになっているが(黒沢・哀川vシネノワール)、あらためて観てこれはどれも「黒沢・哀川作品」として扱っていいのではと思う。
今回もいきなりの暴力性があった。いきなり家庭にやってくる六平。そして銃で姉を父を母を殺す。この暴力性こそ黒沢だ。黒沢映画ではいきなり殺す。そう、静かな状態のまま殺人が行われるから怖いんだ。
そして30年以上だろうか、時がたち、自分の家族を殺した殺し屋たちを追うのが哀川なんだ。しかし哀川は自分の感情を出さない。淡々と復讐を続ける。
哀川翔の映画はその感情を殺したような感じがたまらないんだ。特に六平との銃撃戦では実にゆっくりと銃を撃つ。しかし哀川には銃はあたらない。ここら辺は黒沢が芸術でなくエンタメとして映画を撮ってくれるので嬉しい。カメラ割りがほんとにいいのだ。構図だろうか。引きの構図で銃撃戦が行われる。そこには「動」でなく「静」としての銃撃戦が繰り広げられる。
そして「蜘蛛の瞳」でも見られる片足が不自由な女性の敵。それは今作でも見られる。これは何の隠喩だろうか。僕はこの一見一番弱いような人間(障碍者・女性)が一番強いという価値の転換、それこそこの映画の「怖さ」なんではないかと思った。たしかに観ていて敵で一番怖いのは六平ではなくこの女性だ。黒沢映画でなんども出てくる「障碍者」が一番怖い。
Vシネと侮るなかれだ。ここにあるのは全面的な暴力性。暴力の怖さとは「予測不可能」の怖さなんだよ。