Inagaquilala

ユー・キャン・カウント・オン・ミーのInagaquilalaのレビュー・感想・評価

4.1
アカデミー賞の脚本賞に輝いた「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観賞する前に、同作品の監督であり脚本も担当したケネス・ロナーガンのデビュー作品を観る。2000年の作品だが、日本では劇場公開されなかったらしい。ケネス・ロナーガンはこちらの作品でも監督ばかりでなく脚本もつとめ、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」にも連なる才能を見せている。

ケネス・ロナーガンはニューヨークのブロンクスの生まれ。地元の大学に在学中から戯曲を書き始め、当初は劇作家として活動していた。ロバート・デ・ニーロ主演の「アナライズ・ミー」の脚本に参加して映画界と関わり、マーティン・スコセッシ製作総指揮のもと、この作品で監督としてデビューした。しかし、なぜか映画監督としては寡作で、ウィキペディアによれば、この作品の後は2011年の「マーガレット」までメガホンを取っていない。

物語の構造は、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と似通っている(あくまで作品の内容紹介から察するに)。ひさしぶりに故郷に戻った「帰還者」とその土地で暮らす人々がそれぞれ自分を見出すというもので、パターンとしてはよくある「帰郷もの」と言ってもよいかもしれない。ただ「ユー・キャン・カウント・オン・ミー」では、物語の主人公は帰還者の弟ではなく、彼を受け入れる姉に設定されている。構造は似ているが、スポットライトの当て方が異なるのだ。

ニューヨーク州のスコッツビルという田舎町の銀行で貸付主任をしているサミー(ローラ・リニー)。彼女はシングルマザーで8歳の息子がいる。やむおえず勤務中に息子の送り迎えをしている彼女だが、新任の支店長からは「代わりに送り迎えをする人間を探せ」と咎められている。そこに、しばらく音信が途絶えていた弟のテリー(マーク・ラファロ)から帰郷を伝える手紙が来る。しかし弟のテリーは姉に会うなり、3か月ほど刑務所にいたことを告白し、彼女に借金を申し込むのだった。

そこから姉と弟が抱えている諸事情が丹念に描かれていくのだが、ケネス・ロナーガンの語り口は実にリズミカルだ。登場人物が置かれた状況をくどくど描写することなどせず、軽やかに次のシーンシーンへと移っていく。シーンの中でではなく、その連なりで物語を進めていく。

例えば、冒頭でサミーとテリーの両親は自動車事故で死んでしまうのだが、事故現場は映さない。トラックが向かってくる映像の後は、即座に保安官がサミーを訪れるシーンに変わる。しかもその保安官が両親の死を告げることなく、次のシーンは葬儀に繋がる。もちろんイントロダクションのシーンなので、あえて端折りながらシーンをつなげているのかもしれないが、この軽やかな演出作法はその後も何度も顔を出す。

けっして強烈に興味を引く派手なストーリーではないが、観ている者を物語中に誘い込むこの魔法のような演出術は、到底これが初めての監督作品だとは思えない巧者ぶりだ。田舎町に住む家族の日常を淡々と描写しながも、観る者を飽きさせないのは、細部まで練られた巧妙な脚本とそれを生かした演出にある。監督と脚本を同一の人物が担うがゆえのアドバンテージかもしれない。

劇中、何度も「ドアを閉めて」というセリフが出てくるが、これもなかなか効いている。他の人間には聞かれたくない話のときに語られるものだが、ある種の閉塞感を漂わせながら興味をつないでいく。なかなか巧緻な呪いのようなセリフだ。

姉と弟を演じるローラ・リニーとマーク・ラファロの演技も素晴らしい。緩急の激しいローラの演技とマークの受け。さらにローラの息子役を演じているロリー・カルキン。実はいつもいちばん冷静に物事を見ているこの8歳の少年が微笑みを誘う実にいい味を出している。

序盤では姉が両親の墓の前で祈るシーンがあり、終盤では弟が同じ場所で和むシーンがある。そしてそれを挟み込むように映される緑深い故郷スコッツビルの山々。幼くして両親を失ったこの姉弟の心のうちを見事に映しとったシーンだ。今度は、山間の町から海辺の町へ。「マンチェスター・バイ・ザ・シー」への期待が高まる。
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