YasujiOshiba

自由は何処にのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

自由は何処に(1952年製作の映画)
-
イタリア版DVD。

 まいった。難聴者のためのイタリア語字幕がない。法廷のシーンがきつかった。問題になっているのが不法侵入(invasione)の計画なのか脱走(evasione)の計画なのかがポイント。言葉の綾が笑いどころだったんだね。話はそこからのフラッシュバックで、回想はストレート。自由を奪う刑務所に自由を求めることになる経緯が語られる。

 刑務所から出た散髪屋のサルヴァトーレ(トト)。22年ぶりのローマの街。久しぶりの女性の姿に目をくらませていると、背の高い美女(ニタ・ドーヴァー Nyta Dover 1927-1988)と出会い、かつて自分の店があった場所で昔の悪夢を思い出し(しかし彼女は聞いていない)、それからダンスマラソンの会場へ。

 ダンスマラソンといえば、ぼくはすぐにシドニー・ポラックの『ひとりぼっちの青春』(1969)を思い出けど、こちらのほうが先。それでも1957年にヴィスコンティが「Maratona di danza」というダンス舞台を演出している。もともとは1930年代にアメリカで流行したダンス大会で、今のリアリティーショーのように一世を風靡したものだけど、イタリアでも行われていたってことなのだろうか。

トトをそんなダンス会場へ案内するニタ・ドーヴァーが神々しい。どこかフェリーニ好みの巨大な美女。若者たちが名声と賞金を狙って踊り続けるマラソンは、しかし経営的に破綻しており、お腹をすかせた若者に、トトはなけなしのお金で食事を振る舞う。明日には返すという言葉にだまされる純朴なトト。

 ついでトトが出会う女神は下宿宿の娘マリア。初々しい依代となったのはフランカ・ファルディーニ(1931-2016) で、1952年よりトトの若い伴侶となり、その最後を看取る女優であり、のちのジャーナリスト。

 その下宿屋で生活が安定するかと思いきや、恨みから友人の喉をかき切った散髪屋だということが知れ渡ると、誰も彼に散髪を頼むものはいなくなり、追い出されることになる。悲しきトト・ザ・リッパー。

 途方に暮れるトトだったが、偶然にも、自分の家族と再会することになる。屠殺場の下っ端だった兄弟たちが、今ではその所有者となっているのだ。歓迎されるトト。若く美しいアニェーゼも紹介され、デートを重ね、恋に落ちる。しかし家族には隠し事があった。

 ある人、アブラーモ・ピエリーノ(レオポルド・トリエスト)が訪ねて来て言う。「いい家にしたものだ、わたしの血を使って」。ここでトトが、それはA型、それともB型と言うところは笑いどころだけれど、あとで笑いごとではないことがわかる。その「血を使って」(col sangue mio)という言葉が、秘密を開く鍵となるのだ。

 しかしトトの兄弟の一家は、このユダヤ人のアブラーモのことを悪党呼ばわりする。それなら、自分が始末をつけようと言うトト。妻のアイーダを寝とった男を殺したときのように、家族のためならと自分が犠牲になろうと出かけてゆく。そのときだ、この一家のなかでひとりニヤついていた男ナンディーノが、追いかけてきてこう言うではないか。おまえはいったいムショで何を学んできたんだ。同じ過ちを繰り返すなよと。

 ナンディーノが説明する。お前が善人だという家族だが、じつはとんでもないやからだ。金のためならなんでもする。そもそも、お前が聖人だと信じていた妻のアイーダだって、浮気してたんだ。ところが男から捨てられそうになって逆上し、お前をそそのかしてそいつを殺させたんだ。すべてを連中は知っていた。そして今、同じように、お前をそそのかしてアブラーモを殺させようとしているのさ。

 そう説明するナンディーノは、トトをアブラーモのところに連れてゆく。ユダヤ人の彼とその家族は戦争中にナチスの収容所送りとなる。生きて帰ったのは彼ひとり。トトの家族が住んでいる家は、もともとはアブラーモの家だったという。それだけではない。彼の家族は誰かの密告で収容所送りになったという。誰の密告か。アブラーモは言おうとしない。証拠がないというのだ、しかし、トトはわかった。密告したのはトトの兄弟たちだ。アブラーモの家族が連れ去られた後で、その家と財産を乗っ取ったというわけだ。

 こうしてトトは、その恐ろしい家族のもとを離れようとする。あの美しいアニェーゼに声をかける。逃げ出すぞ。しかし彼女は出てゆく気がない。この家に残るわ。妊娠しているからだという。どうやら一家の誰かの子どもらしい。妊娠していることを分かったうえで、彼女をトトにおしつけたというわけだ。

 トトは堀の外の自由に絶望する。これが自由というののなら、堀の中の生活のほうがマシではないか。こうして、もとの刑務所に脱走用に考えていた計画を逆に利用して不法侵入し、逮捕され、裁判にかけられることになる。有罪になればまた刑務所に戻れる。結果は有罪。しかし罰金刑。これでは刑務所に戻れない。それでも戻るためにはどうすればよいか。知恵を絞り、うまく弁護士から刑務所送りに必要な行為を聞き出すと、そいつを実行に移す。

 トトは再び、めでたく不自由という名の自由を得た。あるいはそれは自由という名の不自由なのか。その自由とは、『無防備都市』のドン・ピエトロ神父/アルド・ファブリーツィが自由のために銃殺されることで達成しようとしたもの。『ロベレ将軍』のペテン師デ・シーカが嘘の中に見出した真実。

 あるいは『ストロンボリ』のカリン/バーグマンが絶望のはてに火山の空でみつけた希望。『ヴァニーナ・ヴァニーニ』のカルボナーリのピエトロが鎖につながれて初めて肉欲から理想のために死ぬことであり、ドンナ・ヴァニーナが愛のための裏切りの果て、世俗を捨てて修道院の門の向こうへ閉じこもり、神への愛に生きること。

 なるほど、ロッセリーニにとって「自由の在処」は、家族を捨て、社会を捨て、世を捨ててのちに、見出せるところ。じつに理想主義的であり、どこまでもカトリック的で、神秘的でもあるわけだ。

 そんなロッセリーニの衣鉢を継ぐのが、フェリーニであり、タヴィアーニ兄弟であり、そしてエルマンノ・オルミだということが、わかったような気がする。
YasujiOshiba

YasujiOshiba