YasujiOshiba

ある貴婦人の恋のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ある貴婦人の恋(1996年製作の映画)
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イタリア版DVD。24-58。字幕なし。タヴィアーニ作品ではこれだけが積読状態だったので、原稿を頼まれた機会に鑑賞。タヴィアーニの語り口がみごと。ゲーテの原作は読んでないけれど、その世界に確実に触れさせてくれる。

 原作は『親和力(Die Wahl-verwandtschaften)』(1809年刊)。でもこれ「wahl-」(選択的)が訳されていない。しかも「親和力」あるいは「引き合う力」は複数形。だからイタリア語タイトルも「Le affinità elettive」。この化学由来の言葉は、ふたつの引きあう物質に、べつの物質を接触させると、それまでの結合を離脱、新しい相手を選んで結びつくというもの。だから「選択的な elettivo / wahl 」な「結びつき le affinità / die Verwandtschaften」。

 キャスティングがよい。最初に硬く結ばれる2人はイザベル・ユペール(カルロッタ)とジャン=ユーグ・アングラード(エドアルド)。この組み合わせにファブリツィオ・ベンティヴォッリョ(建築家のオットーネ)とマリー・ジラン(養女オッティーリア)が加わることで、親和力に変化が生じて、別の相手とくっつくことになる。いわば恋を化学的に操作してしまうのだけど、文学ではなくて、それを映像でやるところがタヴィアーニ。

 ほとんどホラー映画の演出のように、始まるぞ始まるぞと焦らしてから、あのベッドシーン。心に描いている相手は、目の前の相手ではないという文学表現を、みごとなテンポと編集で物語ってみせる演出の妙。

 そしてラストシーンには、あの召使の少女アゴスティーナ。悪気はなかったのだ。主人が食べないものをいただく、ゲームだと思っていたのだ。けれども、心のどこかでかわいそうだと感じていた。だから泣いたのだ。そしてよ、もういい、亡くなったと聞いたとき、屋敷を飛び出して、丘陵地へと彷徨い出る。

 その少女を子どもたちが探す。「アゴスティーナ、どこにいる?こわがらなくていいよ。お前のせいじゃない。オッティーリアお嬢様は病気だったんだ」(La signorina era malata.)。その声をエドアルドが聞く。そして「病気だったんだ(Era malata)」が過去形であることを訝しむ。なぜ「だった」のか。オッティーリアに何かあったのだ。駆けつけようとボートを出そうとするエドアルド。しかしそれは不吉なボート。彼女が誤って赤子を死なせた船は、彼をもまた、同じ場所へと連れ去ってしまう。

 こうして、ふたりの亡骸が、肩を並べてトスカーナの美しい自然のなかを進んでゆく。ジュゼッペ・ランチのカメラがとらえ緑は、タヴィアーニ兄弟の故郷のサン・ミニアート。もはや親和力の亡くなったその場所をオットーネが立ち去ると、あの少女アゴスティーナがなおもアー、アーと苦しみに満ちた悲しい叫びをあげながら、森の中ににきえてゆく。

 自然は美しい。けれどもその法則は厳然として、時に残酷で、ひとりひとりの人間がどれほど頑張ったところで太刀打ちできない。人には打ち勝つことができないものがある。タヴィアーニ兄弟の物語は、そんな諦念を映し出すのだが、それでも愛し、憎しみ、戦う人々を捉え続けるのだろう。愛しているがゆえに壊してしまう。大切だと思いながら傷つけてしまう。楽しいと思っていたら、恐ろしい結果を招いてしまう。それでもひとはきっと愛し続けるのだ。

 タヴィアーニ兄弟の物語は、残酷な世界に美しさをとらえ、矛盾に満ちた個々人に敬意を示し続ける。人間とはそういうものなのだ。破局が見えていても愛するし、負けると分かっていても戦うのだ。たしかにそれは矛盾だろう。けれど、たとえ矛盾に見えようとも、いやむしろ矛盾しているからこそのドラマが生まれ、そのドラマの向こう側にリアルな人生が浮き上がる。それが映画だ。

 今を生きるぼくたちに、今の問題を、今まで気が付かない形で語って聞かせてくれるとき、ぼくたちはそうだったのかと、自分の生きている意味を知り、膝を叩くことになる。ちょうど若き日のタヴィアーニ兄弟が、ロベルト・ロッセッリーニの『戦火のかなた』(1946)を観て、膝を叩いたように。
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