まぬままおま

愛に関する短いフィルムのまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

愛に関する短いフィルム(1988年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

『デカローグ』の第6話を長編劇映画として再構成した本作。

第6話は、19歳のトメクが年上の女性であるマグダとの「愛」でイニシエーションを果たす印象が強い。それに対して、本作は、窃視の被/対象の逆転や同じく孤独を有する人物であることが強調的に感じられ、年齢や性愛観は隔たりつつもフラットな人物像や関係になっていると思われる。

このような描き方の違いによって、「共感」がより主題として浮かんでくる。

トメクは窃視によってマグダの悲しみを感じる。その共感が、彼をマグダへより接近させていき、純粋なデートに帰結する。しかしマグダがトメクに教える「愛」は、トメクの思う愛とは隔たり、射精という快感は伴っていても不快なものである。だから彼は愛に幻滅して自殺を試み、痛みという感覚を取り戻す。そしてその事実をマグダは知って、彼の様子を望遠鏡で窃視し始める。痛みに共感して、恋い焦がれるのだ。

そのようにして本作は愛と痛みによる共感が彼らの関係や出来事を突き動かし、その転倒が
面白いのだが、ここから距離が問題となっているようにも思えてくる。

愛と痛みの距離。遠すぎては感じられないし、近すぎても幻滅するだけだ。ではどこに適切な距離があるのだろうか。望遠鏡の距離?マグダの部屋の中の距離?だがどちらも痛みや愛を感じてしまうし、幻滅するのだから、適切とは言い難い。それなら関係したら必然的に痛みや喜びが伴うことを自覚しないといけないのかもしれない。

第6話の大きな変更点のラストシーン。
マグダはトメクの部屋を訪れ、包帯で腕を巻かれて横たわる彼の姿をみる。その時、彼女はきっと痛みと愛が入り交じった複雑な気持ちである。そして望遠鏡を覗き込む。そこには最も悲しみに暮れた過去の彼女に重なるように、トメクが肩に触れなぐさめる未来像が映される。この第6話にはない明るい未来の兆しへの変更は、マグタを演じたグラジナ・シャポロフスカからのお願いによるそうだ。しかし私には、キェシロフスキの未来像への疑念を感じてしまう。つまり、触れられない。

追記
第6話からの再構成でさらに「赤」と「白」の対比も鮮明になっている。磨りガラスと血の赤と、ミルクと精液の白。しかもこの対比はとてもフラットであり、故にどちらかを減衰したり、増幅することもできない。
もう一つ象徴的なのは、円/球体である。それはマグダの部屋にあるスノードームからも観取できるのだが、それによってトメクとマグダは中心から等距離な関係であることも窺える。さらに本作の未来像をキェシロフスキが疑っていることは、球体から想起可能なファーストシーンで床にガラスが散らばる様を第6話と同様に残している点からも感じれる。つまり二人の円満な関係を思い描いてもそれは粉々になってしまうのだ。そして私はキェシロフスキの懐疑に共感してしまう。