愛に関する短いフィルムの作品情報・感想・評価

「愛に関する短いフィルム」に投稿された感想・評価

主要登場人物、全員孤独。

そして孤独を紛らわそうと、嘘の愛で誤魔化している。

見られる立場から見る立場へと、変わる滑稽な一部始終はじりじりとする。

容赦なく突き放される…
koro

koroの感想・評価

4.8
めっちゃ良かった!好きすぎて途中から心の中で唸りつづけた。
見る/見られるの逆転するあたりから本当に面白い。男の子は若いから、もっと未来があって違う人をすきになるかもしれんけど、確かにあれはあの歳にしか経験できんひとつの愛。それに触れてあの女性はきっと愛を思い出したに違いない~それは決してあの男の子に対してではないかな、でもきっとこれから生きるうえで大切にしていこう、と思える気付きだったはず。
あと画面とか光の入り方とか相変わらずのオシャン、この映画の雰囲気とすべてが一致している。興奮で変なことしか言えないけど良かったですほんとにほんとに
海

海の感想・評価

5.0
そのひとが欲しいとは少し違う、そのひとになりたい、のほうが近い恋。

愛するって何?
もっと簡単なのって、じゃあどれが愛じゃなくて恋じゃないの?ひとに譲ってもいい恋とか、支配したいなんて考えるはずもない愛の想い。嫉妬や執着や欲深さで、測れるんだったらどんなに楽だったろう。

ただ見ているだけだったんだよ。幸福の中に居て欲しかった。濡れた髪、部屋の中を踊るように動いて、何でもない癖も時間の並びまで覚えて。窓から見るその景色、まるで一枚の絵画のようだった。美しいから、愛しているから、そこに自分は居なくてもよかった。
あなたが手のひらで撫でた、零れたミルクの生ぬるい温度を知りたかった。流す涙だけ、この手で止めてあげたいと願った。
持て余した胸の温もりが、同じように泣き始めるよりもはやく、どんな言葉でもいいから伝えなくちゃいけなかった。
そうやって恋も愛も囁く。
今度アイスクリームを食べに行きませんか。

きっと彼女には忘れてしまった事かもしれないし、触れずに通りすぎたものかもしれない。覗き見をして芽生えた恋心や、19歳の「愛しています」なんてとても信じられなかった。まるで試すみたいに愛を説いて、押し付ける。
泣くまで。解るまで。恥じ入るまで。死んでしまうまで。はじめて同じ場所に立てる、でも、ここに連れてくる事よりも、あなたに成って幸福にしたいって、その願いがあまりに温かかったから

本能が怖気付いてしまうほど美しいひと。
恋なんて辞書に載ってなくていいし、ラブソングだって聴かなくていい。
名前すら知らなくても、他の誰一人愛した事なくても、これこそが愛だ。誰にも解かせない。あなたにだって説けない。
分ける必要も、解りやすく変えていく必要もなかった。
距離を縮めるごとに置いていくごとに変わっていけばいい。幸福になれるように、あなたにもっと近づけるように、わたしがあなたにならなくても、あなたがわたしを愛してくれるように。

美しいから、愛しているから、わたしがそばに居たかった。


これすごく好きだなあ。
男の子と向かいの女性が出会ってから一気に加速する。そして双眼鏡で失速して、また望遠鏡で駆けていく。
覗き見や悪戯とかしてたのとおんなじ目でおんなじ口で愛を語る時、視線は泳ぐしまなざしは鋭くて、言葉は少ないし声は上手く跳ねない。この心との距離がなんかくすぐったいし恥ずかしい。

愛って無限大。
世界中いっぺんに本気で愛について語る時、まちがいなくどれも正しいのだ。

2018/6/1

六月一本目これでよかった。
「終わりなし」のほうも観て主演の女優さん綺麗だなってやっぱり思ってたんだけど、「愛に関する短いフィルム」の向かいの女性の時、全然雰囲気の違う美しさがあってスゴイと思った。
『殺人に関する短いフィルム』と同様に、こちらも『デカローグ』のなかの『第6話 ある愛に関する物語』をロングバージョンにしたもの。

キェシロフスキの核心をつかむならば、まずは『デカローグ』から観た方が絶対にいい。

彼の手法のひとつに、バルザックを思わせる”人物再登場”があって、『トリコロール』三部作では、青・白・赤それぞれの主演者たちが再登場するのだけれど、『デカローグ』でも、その手法がとても生かされていることがひとつ。

もうひとつは、これもやはりバルザック風というか、人間に対する洞察がたいへんリアルで、胡散臭い(うさんくさい)ヒューマニズムなどを寄せつけない視点が、主題を異にした作品群である『デカローグ』でないと分かりづらいからだ。

とはいえ、キェシロフスキの最大の魅力は、そうした主題や脚本(ストーリー)や手法のようなものではなく、”何か”に満たされているワンショットごとの密度や質感だと思っている。

駄作がないというばかりでなく、駄目なショットが全作品を通して、まったくない。毎秒の密度で、時が刻まれていく質感を、全ショットを通して感じつづけることになる。

タルコフスキーがコンセプトとしてそうしたならば、キェシロフスキは作家の資質として、ナチュラルにそれをやっているとさえ思う。

愛に関する短いフィルム。

ストーリー自体は、こう言ってはなんだけれど、日活ロマンポルノもさりなんという内容で、どうということもない。

純真な童貞くんが、年増の悪い女に惚れてしまって、覗き見しているうちに、欲情が愛へと、青年期特有の昇華をとげていく。けれど、めちゃめちゃ恥ずかしい形で挫折する。

挫折させちゃった年増の悪い女は、その一方で、チェリーボーイ的真っ直ぐさにうたれてしまい、立場が逆転する。見られる側から見る側へ。見る側にまわることで、見られていた本当のものを知る。

ここに描かれるのは、いわゆる世間一般でいう”愛のようなもの”でないことは、キェシロフスキの核心をつかんだ人間でないとすごく分かりづらい。ロングバージョンのラストがそれに拍車をかけている。

キェシロフスキにとっては、愛とは不可能性のことであって、愛はその行いのなかで、ひとつの原罪のかたちをとるに過ぎない。

そして、そのことを語るのは、ストーリーではない。”何か”に満たされたフィルムの質感のみが、それを浮上させ、見つめ、時のなかに刻み、そして慰撫する。

その”何か”にふさわしい言葉をずっと探しているのだけれど、私はまだ発見できていない。それはもしかすると、日本語にはなく、ポーランド語にはある言葉なのかもしれない。
この感じ素晴らしい
一見すると歪んだ愛情のようだけど、実際は主人公が一番真っ直ぐな愛情を抱いてるっていう…
haru

haruの感想・評価

5.0
アイスクリームを食べに行きませんか。

19歳のトメクは、毎日向かいのアパートに住む熟女を一途にストーキング。彼女のためにちょー早起きしてミルクを届け、彼女に会うために偽の手紙を送り、彼女を見るために毎日望遠鏡で彼女の生活を覗き見。なんだただのストーカー日記かって思ってたら、中盤この一連の犯罪行為が本人にバレてからが最高なんです!個人的にここでトメクが彼女に「アイスクリームを食べに行きませんか」と誘うところが、すごくすごく好き!
見返りを求めることなく、一途に愛を捧げるトメクと、「愛なんて幻想」だと言う女。だけど人間は自分を守るために嘘をついたり、本当の気持ちを隠したりする。だからその人の本質って見た目や行動だけじゃわからない。キツそうに見えても、実は家で一人で泣いてるかもしれないし、もしかしたら自分で自分の弱さを認められないのかもしれない。覗き見行為は犯罪ですが、「見つめる」って大事です。
ただの気持ち悪いストーカーの話にならならいのがキェシロフスキの凄いところ。
愛してるって何?について考えさせられる。発するセリフも素晴らしいのだけど、セリフのない映像だけのシーンの間合いが本当に見事!ずっと観ていたい映像。特に最後は素晴らしい。
大勢の中でなぜか1人だけ視界に入ってきてしまう事がある。無意識に見てしまうことは人を好きになる始まり。目で追ううちに言葉を交わしたい、接触したいと思うようになる。そしてその欲求は決して最初から即物的な性愛ではない(おそらく殆どの場合は)

本作のトメクの‘愛’の始まり方はそれとは異なる。始まりが興味本位で始めた覗きだから。ある人を覗いて頻繁に見つめている内に好きになる。愛していると思うようになる。大勢の中から無意識にひとりを選び出すことが愛ならば、誰かを意識的に凝視することで生まれるのも愛なのだろう。

女「何故見ていたの」
トメク「愛してるから」

これは全く逆の会話も成り立つはず。

「なぜ愛するの」
「見ていたから」

葉隠の恋のようだ。恋い焦がれる気持ちを抑えてただ見つめる。トメクは何度も幼稚ないたずらで接触しようとするので厳密には葉隠の恋ではないが、その想いを秘めながら一年間も見つめ続けている。彼は未経験ながら潜在的に知っているのではないか、単なる肉体の結びつきが愛を終わらせてしまうことを。自分の純粋な愛が薄汚れてしまうことを。‘愛’を‘愛と感じられる大切なもの’と置き換えてもいい。

女の部屋での一件を境に視点が変わる。女がトメクを見つめる(探す)ようになる。トメクの視線はそれ以降描かれない。ここに他の覗き映画と異なる面白さがあり何ともいえない切なさがある。

覆水盆に帰らず。だから牛乳瓶を倒して牛乳がテーブルに流れてしまうと涙が溢れるのだ。


* * * * *


本作はTV作品『デカローグ』第6話の映画版(尺は1.5倍)であるが、ラストシーンが異なっている。本質的には同じだと思うけれど、映画版のラストの素晴らしさは感動的です*:.。.*
カラン

カランの感想・評価

5.0
キシェロフスキ監督は超弩級の方だということがわかりました。本作『愛に関する短いフィルム』は恋愛光学の話しです。

本作以前にも、恋愛光学に関してたくさん作品が作られてきました。例えばピエール・クロソフスキー(画家のバルテュスの兄)の『ディアーナの水浴』では絶対に見てはいけない女神の水浴を盗み見るために森に忍んだ男は鹿に変えられて、猟犬に食いちぎられて肉片に細分化されていくのですが、同時に、女神の裸を盗み見るという至高の享楽をえるのです。見てはいけないものを見るのはオルフェウスの神話以来、喪失を意味しましたね。ジャン・コクトーがこのテーマで映画を作っていたと思います。この種の「眼差しの中の愛」をテーマ化した映画で私が好きなのは、ジャック・オディアールの『リードマイリップス』です。スュルメレブルという原題は「お口で」くらいの意味ですから、見ることとエロスが絡みつきます。映画を観れば分かります。

さて、目が物を見ることができるのは、光の反射を視神経が受容するからです。したがって、光の反射が起こらないゼロ距離では視覚は機能しません。ここに視覚に対する不信が芽生えるのです。視覚は距離がなければ物を知ることができない。離れたところから物の表面をなぞることしかできない視覚は、例えば触覚ほどには感動を伝えることはできない (moved/touchedといった感動を表す表現は触覚系の語彙である。日本語でも「琴線に、ふれ、る」などという) のだ。つまり、視覚は本質的でないというわけだ。だから、この映画の窃視も、罪や若気の至りだとは言わないとしても、本質的な愛であるとは誰も思わない。そういうわけで、私たちはこの映画の女と同様に「愛してるから」を繰り返す青年の想いを、「ほろ苦い」気持ちにならずには受け入れられず、この映画をせいぜい青春童貞アートムービーと言ってみる以外に受容の術を知らないのだ。そして取り逃がしてしまうのだ、この愛の喜びを。本質的な愛の喜びを。

そういう私たちの無理解さは、アイスクリームデートの後で青年が初めて女の部屋に招かれたシークエンスによく表れている。

窃視をして何を見たのか?全て、を。全て?なぜ見たのか?自分でやるためか?はじめは。でも、そのうちやめた。では、見ることに何の意味があるのか?何も。意味など、何も、ない。女には恋愛光学が分からない。ないとはどういうことか?何もないのに、なぜ見るのか?女の部屋でのシークエンスを追跡しよう。

シャワーを浴びた女が、ソファに座った19才の青年の前に、ブラウスだけの姿で座る。女というものの性について、そして自分の現在の愛液の状態について教える。女は自分のももに青年の手を導く。青年が女のももの奥に手を滑らせると、青年は震え、それから悲痛な声を出す。

「いった? これが世間でいう愛の正体よ。」と女。やはり、女には眼差しの喜びが分からない。だから青年は駆けだし、事件が起きる。

この後の悲劇と奇跡については、映画をぜひとも見てほしい。

一つだけ付け足しておく。最後のシークエンスで、青年と暮らしている老婆が、青年に《触れ》ようとする女を制止する。この制止は、もちろん老婆が「孤独」で、嫉妬から他の女に触れて欲しくないと思ったのだと解釈すべきでない。今述べてきた恋愛光学に基づいて解釈すべきだ。愛は純粋に見なければならない。触れるべきなにかではないのだ。キシェロフスキ監督は、間違いない、光学の達人である。映画監督としてこれほどの達人を『インランドエンパイア』を撮ったデビッド・リンチ以外に、私は残念ながら知らない。
324

324の感想・評価

4.0
覗かれていた女が逆に関与し始める中盤からもっぱら面白くなる。そこにあるのに表現できないだけ的な、真逆なアプローチ。変わり続ける関係が楽しい。
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