とらも

スペシャリスト 自覚なき殺戮者のとらものネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

20世紀が残した問い

ドキュメンタリー。ドイツ帝国内のユダヤ人の移送を担当したアドルフアイヒマンが1960年に受けたイスラエルで裁判の模様を2時間に編集した映像。ナレーションなどは一切なくつなぎ合せてるだけ。

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合ってるのかは知らないがどこかで読んだところではこの裁判は120時間越えの映像素材がありこのドキュメンタリーは2時間に編み直しているわけで製作者のバイアスは当然大きく影響してるはずだ、というのは前提である。

また、これから書くのはこのドキュメンタリーからの感想であって、アイヒマン裁判や600万人のユダヤ人虐殺についての正確な事実に基づいた意見ではない。

また、僕が持ってる知識は、ハンナアーレントについての新書に書かれてた程度の解説と映画「ハンナアーレント」で描かれたこと。また極めて一般的な知識としてのユダヤ人への虐殺の知識だけである。

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この裁判に至る経緯は書かないけれども「国家的な思惑」が当然関わっている裁判である。アイヒマンを通してユダヤ人へのナチス犯罪を改めて問い直し断罪すること、それをイスラエル国民が目撃することを目的にしていたのは当然そうだろうし、国際的なあるいは国家的な力学からして自然なことである。

このドキュメンタリーを僕が見ているとアイヒマンという人が「官僚的」もしくは「法律的」な用語しか使わない人だということに驚く。かれは個人としての感情の表明を避け続ける(最後の反撃として使ったりはするけれど)。それは裁判で不利にならないための「戦術」だとも捉えられるしその要素もあると思う。しかしながら彼の性格の一端ではあるのだろう。興味深いのはこの口調は裁判には適しているのだ。その文脈で聞いてればかれの発言はこの法廷で最もリーズナブルなのだ。

逆に浮き上がってくるのは検事の感情的で非論理的な尋問である。あるいは裁判官だって「残念」や「勇敢な発言」など裁判には似つかわしくない表現を用いてしまっている。
特に検事の発言として一例を挙げるなら、アイヒマンがユダヤ人絶滅を決めた会議で議事録しか作っていないと証言した際、「そんなわけないだろう。あなたは速記者なのか?それとも中佐か?」と尋問する。これは明確な詭弁で「誤った二分法」と言われる詭弁にあたる。
こういう詭弁が注意されず許されているこの法廷の正統性が疑われるのは当たり前の話だ、と僕は思う。(当然だけど、それはアイヒマンが600万人虐殺へ責任があるのかどうかとは全く別の議論だ)

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アイヒマンの性格は、本当に一市民としては無視できない。
かれは組織の中で自分の仕事を果たす義務を感じ、ただただそれを忠実にこなし、ただ上司に忠実だっただけだという。仕事内容もそのほとんどはユダヤ人を列車に載せることであり、上司から求められるのは効率的な輸送方法や時刻表決めである。彼は600万人の虐殺につながるとは「考えなかった」。想定しなかったのではなくておそらく考えないことを「選んだ」。

誤解を恐れずに言うが、組織に属するものは誰だってこういう考え方はするはずだ。自分の良心と照らし合わせて、するべきでない仕事を押し付けられることはある。それめも組織の中で生きていくために仕事をするのだ。

もちろん「虐殺」に関与してるとわかったなら人として止めなければならない。
でも、どこで線をひいたらいいんだろう?

そして自分の決断が他人の指示の上で成り立っていれば責任回避をするものだ。

これはアイヒマンという「極悪人」だけの問題ではなくてどんな「人間」にも突きつけられてる課題である。
どこまで責任を取れるのか?あるいは取るべきなのか?アイヒマンの分裂した精神は我々の中にもいるはずだ。

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追記:2017.01.11

ハンナアーレント『責任と判断』内の「独裁体制のもとでの個人の責任」を読んだので追記。アイヒマン裁判にまつわる論争に巻き込まれたアーレントによる小論。ラジオでも何度か放送されたそうだ。アイヒマンを例に出すことは多いが普通の道徳感覚を一夜にして捨て去ってしまったドイツ人個人の責任を問うている。

アイヒマンや戦犯者に関連してアーレントはいわゆる「歯車理論」とよばれる自己正当化を否定する。個人は組織の中で生きために上司に従うただの歯車でありたまたま犯罪行為が私に回ってきただけの偶発性によって裁くのは不当だという弁論である。これに対してアーレントは裁判の手続きはそもそもシステムを問うものではなく個人の行為について問うものだとする。そのためたとえシステムの中でそうせざるを得ない構造があったとしても行為を成した時点で個人の罪となる。もちろんシステムは情状として考慮されうるが個人を裁かないための免責とはならない。
他にも戦犯たちの言い訳とそれへの反論をいくつか論じたのち、アーレントは独裁体制のもとでの個人の責任を論じるため「ナチス体制下で公的な仕事を拒否できた人間」と「ナチス体制下での強制的同一化に従った人間」について分析する。
前者の人たちに関しては、なぜ拒否できたかを問う。アーレントの解答は彼らがナチスの罪に加担した姿の自分を直感的に拒絶したからだとする。なぜそのようにできたかといえば、自分との仲違いを避けたからである。殺人者や加虐者としての自分を自分の中に抱え込んだまま生きていくこと、そうするくらいなら死んだ方がましであると思ったからだ。
後者の人たちに対しては、彼らがなぜ強制的同一化を受け入れ、そして戦後にどのようにして自分を道徳的に弁護したのかを分析する。彼らは服従を重要な徳目と考えていた。服従なくしていかなる支配や秩序も成り立たないと思ったからだ。そしてそれが合意というものの意味だと考えた。ドイツ語の合意の中には服従の意味が忍び込んでしまっていたとする。しかしアーレントはそれは子供と奴隷の時にその意味となるのであり成人による合意の場合は合意=支持と考えるべきだとする。指導者というのは周りの人間からの支持なくして存続できないのであって彼らが服従の名の下にヒトラーを支持したのだと断罪している。そしてこの裏には道徳が単なる習慣のようなもので一旦決まったら固執されるべきものだという感覚があるのではないかという批判もなされている。
アーレントがこの小論で析出するのは、自分との向き合いの重要性でありそれこそが考えることの意味なのだ。(これはソクラテスが行なったことでありアーレントは違う論文で『ゴルギアス』を引用しながら検討している、らしい。)
僕の感想としてはこの小論で一番面白いのは、裁くものにどのような資格がいるのかという問いをめぐる前半の議論。裁くこととへの忌避感が広がり一億総懺悔的に全ての人を免責するドイツの風潮を揶揄しながら、それでもアーレントである自分に裁く資格があるのかという疑いは正当なものとして引き受ける。なぜなら自分は1933年に友人たちが道徳に関する判断力をいとも簡単に失う恐怖を体感した後に亡命し1945年のホロコースト当時は裁くために必要な概念や知識もなかったからだ。しかし、裁くための基準や経験のどちらか、あるいは両方が欠如していても、裁くことを可能にする『判断力』という概念をアーレントは示唆する。そして自分でははっきりと述べてはいないが裁くだけの判断力が自分にはあることを暗示している(そしてそれは1933年のドイツ人にはなかったものだ)。この暗示のみでアーレントはアイヒマンとドイツ人の罪を断罪していく。恐らくは他の論考で判断力について論じてるのだろうがこれだけ読むと中々すごい。
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