きゃんちょめ

保険調査員フランク25のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

保険調査員フランク25(2001年製作の映画)
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【保険という概念についての考察】



ライプニッツの前提「何もないことの方が、何かがあることよりも単純で容易だ。自然の世界においては、単純なことのほうが、複雑なことよりも起きやすい。生命現象を除いて、複雑なものは単純化されていく傾向にある。無=単純(ベルクソンによる批判がある)で、単純=容易(インワーゲンによる批判がある)である。」

ライプニッツの第一の問い「なぜ何もないのではなくむしろ何かがあるのか。」

ライプニッツの第二の問い「なぜこの様であって、別の様ではないのか。」

ライプニッツの隠れた問い「なぜこの私はたったひとりしかおらず、個物もそれぞれたったひとつずつしかないのか。」

「Why is there something rather than nothing ?」あるいは「Why is there anything at all」なぜ何もないのではなくむしろ何かがあるのか。

いや、この世界は存在しないというのが仏教の答えだった。「Just because it is」というのがバートランド・ラッセルの答えだった。ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の第6節第44章でこの問いについてヴィトゲンシュタインは言及しており、「Not how the world is, it is mystical, but that it is.」と言っている。(ヴィトゲンシュタインにとって神秘は2つあった。ひとつがこのライプニッツの問いで、もうひとつは、倫理の問いであった。)アルチュール・ショーペンハウアー(1788-1860)の考え方の根本は「人生は苦である」というテーゼだった。早く死にたいというショーペンハウアーに限って72歳まで生きた。欲望の挫折したところに世界が現れるというのがショーペンハウアーの考え方だった。『意志と表象としての世界』(1819)の中でもこの「ライプニッツの問い」は再掲されている。

なぜこのような問いを我々は発するのだろうか。それは、我々自身の存在に根拠(グルント)がないからだとショーペンハウアーは言う。世界の存在理由を知ることによって、自己の存在理由が知りたいからだというのが、ショーペンハウアーの答えだった。自己は、偶然的存在だというのだ。自己は存在しなくてもよかったということだ。例えば、キリスト教徒にとって、神は必然的である。なぜなら、もし存在しなかったとしたら矛盾が生じるからだ。

また、もし、自分自身の存在が必然的で、自分が存在しなくてはならなかったとしたら、ましてや世界は存在しなくてはいけなかったはずだ。だから、もし、自分の存在が必然的だったらこのライプニッツの問いは発生しない。しかし、なぜこの順番なのだろうか。

つまり、世界の存在理由を知ることによって自分の存在理由を知るのか、自分の存在理由を知ることによって世界の存在理由を知るのか、どちらが先なのか。実は、世界の存在理由を知ったところで、自分の存在理由が知れたことにはならない。そこには飛躍がある。

パルメニデスはビカミング(生成)を否定した。ない状態からある状態に移るためには十分な理由が必要で、なにも無いところにその理由があることを求めることはできないので、それゆえ、無いから有るへの生成はありえない。つまり、無限の過去からずっと何かが有ったという結論になる(それはサルトルに嘔吐を引き起こした)。これがパルメニデスによる生成の否定である。物事に終わりがないのは別にいいが、物事に始まりがないのは気持ちが悪い。

ところで、発生と死とはなんだろうか。予先形成説というのがある。いま何かに命があるとしたら、その命は命から生まれたのでなくてはならない。無機物から生命は生まれない。生命からしか生命は生まれない。生命の原因は生命でなくてはならない。あるものの原因はそれと同じものでなくてはならない。これは、ライプニッツ研究者のニコラス・レッシャーに言わせると、「生成における同一性の原理」という。これを打ち破るためには神が介入しなくてはならない、とライプニッツは考えた。無機物から生命が生まれるという、どこかで起きた無機物から生命へのジャンプを説明するためには、自然学(How)から形而上学(Why)へと上昇し、神の力による介入を導入しなくてはならない。

Howによって問われるものはCause(原因)であって、Whyによって問われるものはReason(理由)である。「地球はどうやって太陽の周りを公転しているのか」という問いは答えようがあるが、「地球はなぜ太陽の周りを公転しているのか」という問いは問いが亢進してしまうので答えようがない。

「何事も充分な理由なくしては生じない。何かが起こるとしたら充分な理由がある。その理由を我々は知らないから我々はその出来事が偶然だと思ってしまう。」これが充足理由律である。この充足理由律は矛盾律と並ぶライプニッツの二大原理である。

ライプニッツにとっては、必然的真理は必然的だからどうでもいい。なくてはならないものがあるのは当たり前なのであって、なくていいものがあることのほうが重要なのだ。だから彼は必然よりも偶然を重視した。

また、充足理由律によれば、まったく同じものがふたつあるとしたら、それら二つは、まったく同じ理由によってあるのだから、ふたつではなくて、ひとつで構わない。だから、ひとつしかないのだ。山内志郎の『ライプニッツ』という本では、なぜ私はたったひとりしか存在しないのかという問題を扱っている。

確率概念というのは、パスカルが哲学的な確率概念を作ってライプニッツがそれを整理した。

不充足理由律というのがあって、「すべての物事が充分な理由があって起こるわけではない」というのが不充足理由律である。「サイコロで6が出た時そこに充分な理由はない」というのが不充足理由律であって、それは、「無差別の原理」と呼ばれている。

確率概念の何がそんなに面白いのかというと、サイコロは何度か投げられた時に、その前の目が何であったかということを記憶していない。それなのに、何度も何度も繰り返すと、かならず、全ての目が6分の1の確率で出ているということに収束していくのだ。(大数の法則)

まず、「可能な存在者の中で最大の存在者」を思惟することができる。ここで、「任意の諸属性すべてを備えた存在者S」と、「Sとまったく同じだけの諸属性を備えているが「実際に存在する」という属性を余計に備えている存在者S'」では、S'のほうが大きい。 よって「可能な存在者の中で最大の存在者」は(最大の存在者であるためには、論理的必然として)「実際に存在する」という属性を持っていなければならない。 ゆえに「可能な存在者の中で最大の存在者」は我々の思惟の中にあるだけでなく実際に存在する。 ところで、可能な存在者の中で最大の存在者とは神と呼ばれる。したがって、神は我々の思惟の中に存在するだけでなく実際に存在する。これを神の存在論的証明(オントロジカルアーギュメント)という。バートランド・ラッセルは若い頃、アンセルムスとデカルトの、オントロジカル・アーギュメント(神は完全無欠なので、存在しているという性質も備えている)を信じていたし、ヘーゲルは明らかにオントロジカル・アーギュメントを信じていた。

コスモロジカル・アーギュメントもある。宇宙が存在する理由は、宇宙とは別に存在していなくてはならない。もし宇宙が存在する理由が宇宙の中にあるとすると、その理由が存在する原因が必要になって、宇宙の範囲がどんどん拡大してしまう。原因(cause)は宇宙の中にあるが、理由(reason)は宇宙の中にはない。原因は、宇宙内の系列のどこかに位置付けられるが、理由はその系列の外部にある。宇宙が存在する理由を宇宙内の原因系列のどこかに位置付けると無限後退に陥る。つまり、世界が存在しなければならない理由は偶然的存在者に求められてはいけないのだ。それゆえ、その無限後退を止めるような宇宙の外部の必然的存在者(自己原因者causa sui)が存在しなければならない。このような自己原因がなければ無限後退が発生してしまう。この必然的存在者であり、宇宙の外側にいて、自己原因であって、無限後退を止めるようなものが神と呼ばれる。これがコスモロジカル・アーギュメントである。

「何もないことの方が、何かがあることよりも単純で容易だ」というライプニッツの問いの前提のほうが怪しいというのが、ベルクソンの『創造的進化』におけるライプニッツ批判である。なぜベルクソンがそう言うかというと、「我々は無についての明晰な観念を持っていない」と言う理由からだ。普通、無の観念をつくるために、我々は「存在者の消去」を行なってる。黒板から白墨の文字を消したら、そこを別の黒板の緑色の地がが埋める。我々は無をイメージするとき、引き算をしているのであって全然、自然な状態に無の観念はないのである。しかも、無の観念として何かを思い浮かべたとしたらそれは無の観念ではないことになる。これに関連して、「透明ってなんですか。」と大森荘蔵は問う。色がないことは透明ではない。向こうの木々が窓から透けて見えるということが透明なのである。真っ白色のものは想像できるが、色がないものは想像できない。無であることは自然であるという前提のもとでライプニッツは思考しているが、無には非常に複雑な操作をしないとたどり着けない、というのだ。これは、無=単純、無=自然ということについての批判であった。

また、単純=容易ということに対しても批判がある。ピーター・ヴァン・インワーゲンという分析哲学者がいる。彼は、中国のマスゲームを引き合いに出す。ランダムに札をあげてくれと言われて、全員が赤だったらとても気持ちが悪い。単純なもののほうが容易とは限らない。単純ということは、我々にとって何を意味するのだろうか。単純というのは、容易ということを意味するのだろうか。単純であるためには非常に困難な工作を経たのではないだろうか。つまり、単純であるためには、とても難しい工作をしなくてはならないのだ。単純はまったく容易ではないというのがインワーゲンの批判である。ピュアは複雑なもののことで、単純は人為的だという批判だと言い換えても良い。例えば、搾ったばかりのオレンジジュースは、ピュアであるが、そこにはパルプや泥や手垢などの不純物がたくさん詰まっている。それを加熱処理したりして単純にするのはとても手間がかかる。単純というのは人間にとって手間がかかり、容易ではないのだ。

ライプニッツの宇宙論的証明にも批判がある。原因の連鎖を辿っていくと、最終的に究極の原因すなわち自己原因にたどり着くはずで、そいつが神だというのは間違っているというのがバートランド・ラッセルの意見である。バートランド・ラッセルによるコプルストン神父に対する批判が面白い。「すべての出来事にそれに先立つ原因がなくてはならない」ということから、「すべての出来事の原因があるということは導けない」というのがラッセルによる批判である。この二つの命題はどちらも正しいかもしれないのだが、前者から後者が論理的に導けるというのは誤謬だというのがラッセルの批判である。つまり、Every man who exists has a motherから、The human race must have a motherが導出できないというのがラッセルの批判である。「すべてのそれぞれの人に母がいる」ということから、「すべての人の母がいる」が導けるというのは、どちらの命題も真理かもしれないが、前者から後者が論理的に導けるというのは誤謬なのである。


ところで、ライプニッツの神は、自由なのだろうか、それとも自由ではないのだろうか。最善のことしかできないので決定されているが、最善のことを選べるという意味では自由だというのが、両立論者の答えなのであるが、それはあまりにもひどい答えである。なぜなら、自由という概念は決定論という概念と絶対にバッティングするからだ。

「カエサルが生まれた時から、カエサルがルビコン川を渡ることは決定されていた」「個体(モナド)の中にその全歴史があらかじめ書き込まれている」というのがライプニッツの考えである。ライプニッツは、すべてのことは、起こるべくして起こり、予定調和していると言っている。それだったら年金とか保険とかは要らないはずだ。年金や保険には何が起こるか予測可能性がなくて、不安だから入るのに、なぜライプニッツは年金や保険に関する論文を50本も書いているのか。なぜライプニッツは、ハノーヴァーで終身年金制度を実行しようとしたのだろうか。当時のハノーヴァーでは平均寿命が39歳だった。ライプニッツよりも前に実施されていた年金のシステムは、みんなでお金を出し合って、それをプールしておき、その利息分がメンバーに支払われるのだが、最後まで生き残ったやつは、プールしていたお金を総取りというシステムだった。だから、最後に2人が残ったらそこで殺し合いが起きた。そういうシステムだったのだ。

そこで政治家であったライプニッツは保険制度を考案した。佐々木能章は『ライプニッツ読本』所収の「ライプニッツの保険・年金論」という論文を書いている。それによると、ライプニッツは、「国民が「終身の民兵」(絶対に儲けが出ないような状況にあって、仮に損をすると決まっていても戦うぞという職業詔命感)として保険制度に積極的に参加してくれることを望む。」と言っていて、これについて佐々木は「一人一人の人間が小さき神として世界全体を考慮しながら幸福を追求するというライプニッツの世界観、人間観がライプニッツの保険」に影響していると言っている。ひとりひとりが、もし蓄えが余ったら、自分がもしかしたら損をするかもしれないとしても、お金を預けるということを推奨しているのだ。

つまり、充足理由律は正しいのだから、すべての出来事にはそれが起きるための充分な理由が実は必ずあるのだけれど、その理由が、神ではない我々には分からないからこそ、損をする人はもしかしたら自分かもしれない(偶然)と我々は思うので、ひとりひとりが神の視点に立つ(小さき神になる)ことによって、誰かに不幸があることを利用して全体の幸福総量を増やすために、世界全体を予定調和的な視点に立って、見てみよう、それによって保険に加入することができ、それによって全体の幸福総量を増やよう、という発想がライプニッツの保険の根底にある。つまり、社会に不幸な人がいることには、全体の幸福総量を増やすという意味があるのだ。神からしたら、不幸にはそういう意味があるのだ。そして、人間のままではそれが分からないので、小さき神の視点に立つ必要があるのである。

完璧な保険制度なんてない。どんな保険も、年金も、誰かが損をして誰かが得をするように出来ている。例えば、年金を払い続けたのに、支給され始める前に死んだら大損である。それでも、年金を払うべきなのはなぜかといえば、何が起こるか分からないからだ。何が起こるか分からないがとにかく誰かは交通事故にあったりするし、それが偶然にも自分かもしれない。そして、その人を助けるのか助けないのかが問題だ。もし、その人を助けることによって全体の幸福総量が増えるかもしれないとしたら、入ったほうがいい。そしてそのことを理解できるのは、小さき神の視点からのみである。つまり、不幸な人が存在することによって、全体としてみれば、全体がより幸福になるということがありうるのだ。たとえば、「災害ユートピア」のように、不幸が起きたことによってみなが協力をして、幸福総量が全体としては高まるということがある。神からしたらそれこそが善だったのかもしれない。そしてそれこそが善だと思える視点に立つことが小さき神になることである。損をするのがもしかしたら自分だったかもしれないと考えて、その不幸な人を救うことによって全体の幸福総量を高めようとすること。これがライプニッツの保険の考え方である。人間の視点からはすべての出来事は偶然だからこそ、神の視点に立つことで幸福総量を増やすという目的が見えて、その不幸にも意味があったことにできるのだ。
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