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10番街の殺人のmasatのネタバレレビュー・内容・結末

10番街の殺人(1971年製作の映画)
2.8

このレビューはネタバレを含みます

人間が小さくなって人の体内に入ったり、動物と話せる医者や、大作“ニイタカヤマノボレ”など、メジャースタジオで超大作エンタメを撮っている、その印象が強い監督リチャード・フライシャー。

しかし、知る人ぞ知る、“猟奇”への探究も行っていた。異様な物語を、天才職人的な捌き方で、エンタメ的な手際の良さで異常人物たちを描き切るのだ。

68年の『絞殺魔』が、発端なのだろうか?前半と後半でガラリと変わる二部構成が鮮やかで、しかも、この時代に“サイコパス”に対しての、解明不可能な人間像を描き出している先見の力量は見事だった。
その舞台、ボストンに劣らない程、暗く陰湿なロンドンのトーンに気が滅入る。そこを徘徊するリチャード・アッテンボローの醜さもだ。この男も、何処となく殺人動機不明な人格を引き摺り、淡々と生きている。その生理を、何も決めつけることなく、ジッと見つめるだけなのだ。
その息遣い、その臭さと鼓動。ラストカット、突然のズームアップのストップモーション、ブラックアウト後に、しつこく続くあの息遣いに、フライシャーの執着を感じる。

意地の悪い監督ほど、凄い瞬間、かつてないカットを撮る、と信じている。
本作も、包みの縄を切った瞬間にドタッと飛び出す死体の足、壁の隠しスペースを見つけ、懐中電灯で照らすと、尻突き出して転がっている死体・・・腐臭漂うショックカットが、この手際の良い娯楽映画的スタイルの中に、突然、ゴロッと転がって入っている。このギャップが、フライシャーの病み付きになる最大のポイントだろう。

70年代、ニューシネマ全盛期、その横で、スタジオから離れて、こんな猟奇的な実験、さらには他にブロンソンやジョージ・C・スコットらとどんなモノを企てていたのか、ハマってイキたい、愉しみでならない。
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