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バシュー、小さな異邦人
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『バシュー、小さな異邦人』に投稿された感想・評価

バフラーム・ベイザーイー監督による反戦映画。主演は当時の監督の妻スーサン・タスリーミー(後に離婚)。

【あらすじ】
戦争の最前線に近い地域で暮らす少年バシューは戦火に巻き込まれ家族を失う。トラックの荷台に乗り込んだ彼は縁もゆかりもないギーラーン地方にたどり着く。言葉が通じず、よそ者として疎まれる彼を唯一受け入れてくれたのが2人の子供の母親であるナーイーであった。バシューとナーイーの交流を通じて間接的に戦争の悲惨さが描かれる。

自分と他者の違いを受け入れて、お互いに尊重し合うことの大切さがとても良く伝わってきた。それは個人と個人の関係だけでなく、集団と集団、国と国などより大きな関係でも言えること。人間の一人一人の行動が平和に繋がるのだということを考えさせられた。

バシューはアラビア語、ナーイー達ギーラーン地方に暮らす人々はギーラーン地方の方言を話すため、イラン人が観ても何を話しているのか殆ど分からないらしい。平和に言葉は必要ないというベイザーイーのメッセージなのだろうか。
hk
3.6
イラン映画に興味を持つきっかけになった作品。
擬似親子の話としてストレートにいい話、とはならないところがいい。
ふとしたシーンに印象的な美しい画面があり、それがずっと記憶に残る。
バシューの母親が戦火のなか火がチャドルに飛びついて死んでしまうところから始まる。一瞬何が起きているかと考えると時代的にイラク、イラン戦争の真っ只中なんだと気づく。パシューは空襲を避け、あるトラックに飛び乗る。そのトラックは延々と北方に。

この映画には難民のパシューがどこにいるかとかどこまできたのかとか、何語を話しているのかとかなど、一切の説明が字幕で入っていないので、少し戸惑うが、よく、人の動きを観察しているとわかる。それにイラン文化が日本の文化と似ているという話をあるイランの人から聞いたが、これも特に、村の民の村八分的な動きを追うと納得する。

あとで調べたことによると、パシューはホゼスターン州(イラン・イラク戦争(湾岸戦争)でイラクが爆撃をしているところ)からトラックの荷台に飛び乗り、北西のカスピ地方までいく。約7−800キロは行ったと察する。 これも後で調べたところ彼の話している言葉はホゼスターン アラブ語であって、会話では分かり合えないギラン語を話す地域まできたわけだ。イランの中でも方言があるから言葉レベルでは全く通じないんだなということがわかる。でも、ペルシア語を学校で学習するらしいので、学校に通っている子供達にはそれが共通語となるわけだ。We are all the children of Iran in the Persian language. この言葉はシャー以降イランがモスリム色濃く全体主義になった証拠。でもこの映画ではパシューがペルシャ語を上手に読むので人望を集めていく。

ここでナイ(ヘジャブのみをつける)という力強く心のある二人の子供の母親の存在が気に入った。
パシューはハンサムで理知的な色の濃い少年だ。多分村人やナイたちはパシューのような少年を見たことがないし彼の話す言葉も理解できなかったから偏見の目と言ったらいいか差別的であったと言った方がいいかもしれない。知識の低さもありパシューを石鹸で洗えば色が落ちると思っている。
でも、共通性は二人とも野性的感覚の持ち主だということでお互いにわかりあえる。

急にETが前触れもなしに現れたときのようなもので子供にとっては興味津々で何かを彼に言ってみたり喧嘩をふっかけたりしてみるが、本がスラスラ読めるのに驚き彼と一緒に遊びたがる。しかし、ナイ以外の大人たちは子供のように彼を簡単には受け入れられない。ナイとは今まで築いた信頼関係があるが、村人は彼の表面の色しかみえない。先入観や柔軟性のない村人にとってみると彼を受け入れるのには努力がいる。しかし、映画では将来の村人の経験は描かれていないが、頭コチコチの村人も彼との人間付き合いによって変わってくるとポジティブにわたしはみている。差別、どこの国にも、誰にも存在している現実をみて、差別をなくせるのは人と人とのつながりを深めて、絆を作っていくしかないと思う。これは古今東西同じであるとおもう。そのいい例がナイだから。

この映画の圧巻は最後のシーンで、ここに書くのはやめよう。こんなに大泣きした作品は久しぶりだ。そのあと、家族で農作物を食べるイノシシ(?)や 鳥たちを追い払う。