さわだにわか

二重結婚者のさわだにわかのレビュー・感想・評価

二重結婚者(1953年製作の映画)
4.0
前にもこんな風景を見たと思って記憶を辿ると映画版の『燃えつきた地図』が浮上した。子供がいない以外は何不自由ない毎日を送っていた主人公の男がふとT字路を曲がっていつもと違う道に入ってしまう場面、安部公房っぽかったと思う。そういえば浮気した夫がそのことを妻に打ち明けるが冗談だと思われて相手にされない、という場面も安部公房の『他人の顔』にあったような。

主人公エドモンド・オブライエンはそのT字路の先でハリウッドスターの邸宅を巡る観光バスに乗る。バリバリなキャリアウーマンの妻ジョーン・フォンテインとの関係を「いつの間にか夫婦からビジネスパートナーになっていた」と語るオブライエンは車窓から奇妙に生活感を欠いたジオラマのようなスター邸宅の数々を目にする。

スターはただ家に住むことさえその仕事の一部になってしまう。邸宅ツアーで出会った中華料理屋のウェイトレス、アイダ・ルピノとオブライエンの密会が、その隠れ蓑であったとしてもオブライエンの出張と重なるのは興味深いところだった。どうもこの映画では生活と仕事が同一のものとされている。結婚と出産が社会的労働とされている。映画はオブライエンとフォンテインが養子を貰い受けようとする場面から始まるが、それを強く希望するフォンテインは子供の養育に仕事的な達成感を求めているように見えるのだ。

その帰結として映画が暴露するのは結婚は個人と個人の恋愛の結晶ではなくあくまで社会が要請した制度であるという自明の事実だった。いくら犯罪とはいえ重婚ごときでどいつもこいつも深刻ムードすぎるやろうとつい思ってしまうが、ラストの短い裁判シーンで裁かれているのはたぶん重婚という具体的な犯罪ではなく、社会規範からの逸脱と制度の悪用なんだろつ。そもそも、この映画の探偵役はオブライエンが里親に相応しくない=制度を踏みにじっていると直感的に判断した相談員かなんかなのだ。

子供が欲しいが子供のできないフォンテインはオブライエンと結婚していて、意図せずして子供ができてしまったルピノはオブライエンとの結婚を望まない。こうして見るとオブライエンの二重結婚は彼よりも仕事のできるフォンテインに対するほのかな反抗の色合いを帯びてくる。そこにあるのは結婚生活を仕事の枠組みから取り出すことができずに私生活を失った男の無様と、私としての生活を許さないアメリカ社会の残酷と、仕事からの逃走が結局は仕事としての結婚に辿り着いてしまう不条理な現実の皮肉ではないかと思う。
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