脚本を『ザ・ソプラノズ』のデヴィッド・チェイスが担当した異色の吸血鬼映画。冒頭いきなり墓から蘇った吸血鬼(マイケル・パタキ)が、デート中の男女を襲う。男は惨殺され、女は強姦される。吸血はレイプに過ぎないと、いきなりジャンルの墓を暴いて白日に晒す。まずそういう批評から始まる。不幸な妊娠をした女は、それが禍々しい子であると知りつつ出産、自らの血を与え続けて育てていく。そして出来たのがボディビルダー的体躯の、おおよそ吸血鬼映画にふさわしくないなりのマッチョ(ウィリアム・スミス)で、そこにも批評がある。映画の始まりは1940年、その30年後、吸血強姦魔の父親とその息子は出会うのだが、最早自分を犯した男の子供を育てるような女がいる世界ではない。女たちは、吸血鬼が催眠術を掛ける前に挑発してからかってきたり、正体をばらされたくなければ吸血仲間に入れろを脅迫してきたりする。男の思惑通りにならない変化の中で、反逆する女の霊魂に誘導されるようにして、吸血鬼父子は対決する。文字通りとっくみあうその姿は、プロレスの試合のように見える。ここにも批評がある。この批評意識は、ゴシック的な因縁話に隙間風を吹かせるが、それこそが時代の刻印であり、この映画のユニークな立ち位置の証明にもなっている。暗くシリアスな画面から、じんわりとユーモアが滲む。
[追記]初見時見過ごしたんだけど、最後にわざわざ気取ってフランス語で出る「Fin. Ou peut-être pas?...」が「終わり、それとも?」というBC級ホラー映画のお約束言葉であった。最初のカップルもティーンっぽい言動と容姿がズレていて変だなと思っていたんだが、まあ要するにそういうことなんだね。