ニューランド

わたしの願い/わが望みのすべてのニューランドのレビュー・感想・評価

4.2
☑️『わが望みのすべて』(4.2p) 及び『パリのスキャンダル』(3.6p)『丘の雷鳴』(4.0p)▶️▶️
サークが最盛期を迎える直前くらいで、スタイルの厳密さには完全には届いてなくも、凝縮直前の、しかし原石を遥かに超え、殆んど宝石と言っていい作品群。
『わが望み~』。この作品を初めて観たのは、30数年前アテネフランセ16ミリ版ノースーパーだったか。デジタルの今と違い、素材確保⋅スーパー字幕入れとも大変な時代で(打ち込みでなくスライド投下式がやがて開発されるが)、しかしこの会場は大量の素材を手にし、観る機会の少なかった、フラー⋅サーク⋅マン⋅アルドリッチ⋅レイらを集中的に上映した。ここで所謂シネフィルとして育ちゆくか、所詮B級と見下し映画に垣根を見出だすかに分かれた。私は全く英語が出来ないので、フラーの突発把握間なし続きやサークの隙ない造型による真実抽出に、部分的に感じ入っただけで、真価は字幕が入ってからとなる。
ドイツ時代の閉塞度少なめで解放力を内包した、全体的な流麗な力量、1950半ばから末にかけての、ドラマ⋅演技⋅美術⋅筆致の完全に閉ざされ⋅内に焔が燻り全体を熱化してゆく、全盛期に挟まれた1950年代序盤の作。この頃は喜劇も並行して多めに手掛けてて、本作も悲劇では終わらないし、美術⋅デクパージュもかなり柔軟な所はある。それでいて密度⋅追求力⋅全体枠の広さ、は保たれている。家庭の幸せへの回帰を表向きうたってるが、それは巧みな家庭⋅社会内での流れの捌きのたまたまの帰着点にしか過ぎず、その手つきへの接近⋅翻弄されるよりも近しい感じ、それが作品の生命だ。
角度や構図も今一つ甘いようで、いつ知れず動いてるカメラはドラマを越えて、俯瞰めや仰角めの人や世界の存在の内在する威厳、深く奥行きある構図と他者との連関⋅共存を示し、場合⋅緊急によっては不慮の事故の怪我人を運ぶ馬車のスピード⋅その連なりと一体化する。階段の乗り降りでどんでん切替えや角度の造型と流動の力が急に生まれる。窓越しや限定が連なり得る空間⋅美術。
次女の卒業公演を観てとの手紙で、NY舞台てスターにと偽ったまま、出てきた田舎街⋅捨て残してきた家族のもとに一旦帰ってくる、今や演劇メインから外れたステージにしがみついてる中年女優。時計故障事故による滞在の超過、再婚直前の元夫と嘗て浮き名を流した相手の変わらぬ勝手思い込み⋅行動、その男に憧れてる末っ子と⋅自分をスターと思い込みNYへ連れでてくれるを願ってる次女、出ていっていった自分を許してない長女、一段落時に結婚を(一方がきめてかかり)考えてる男女の初老有色使用人、近親らの配置⋅時間の流れがささやかに豊かで、威圧感なく、威圧の与え⋅怯えは社会⋅世間への意識から生まれ、自分を苦しめる。「出ていった何年も前と変わってない街」「君を抑圧、世間体を気にし、(出ていかれ、舞台への情熱を認め、自分の)我慢すべきをしなかった。君は華々しい成功を手にした」「そんなものより、家庭⋅その幸せがある事の方が大事とも」「(滞在延びて、乱されるもの続き)安定したいま(本来)に戻れず」「演劇の世界はそんなに甘くない。私もスターと言うは嘘。暮らしてくも大変な環境」「(誤解だろうと)スキャンダルでこれ以上街に留まれはしない。街の目が許さない」「彼女との間に信用と義務的なものだけ。愛はない。それがあるのは君だけ」「ママはずっとここに残る事に」
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その数年前の作『パリの~』、明らかにハリウッド⋅分断バランス取りタッチと、本来の造型と確信に閉ざされ追い詰めて行くタッチの、どっち付かずでそれが絶妙の柔軟な各登場人物の選択の兼合いのもたらす、奇跡的筋運びと世界の調和感をもたらしている。美術装置⋅仰俯瞰や傾き図⋅寄るやフォロー移動⋅カッティングも、闇と光のウエイト、進行話術の善悪⋅対立概念踏まえと同時に超越、あらゆる選択肢があるようで、細々選びとり⋅綱渡りをするうちに、成り行きではなく(永年の信頼の悪の片腕⋅相棒との対決、闇雲愛をクリアして聡明決断に届く身分違いカップル)本来の理想⋅理念への到達⋅実現を果たしてく。
「聖人とドラゴン」「犯罪と愛」「愚人と約束」「サタン」「泥棒を妻には。お見通し」「総監閣下と署長」 18世紀頃かの達観に至ってる男の回想談。脱獄犯ふたりが、途中教会の宗教画の一方は聖人⋅一方がは悪のドラゴンに抜擢。途中、馬や身の回りの物着け盗み、逃亡。世話した目の悪い身分高い老婆の彼をみる誤解か⋅卓見か、から推挙すすみ、総監下の現署長を排して署長に。旧署長は愚人の頑なさで自滅。彼に惹かれ係わり助けられるショー舞台の艷女の存在と並行し、総監の娘があの宗教画通して、似た彼に恋を。彼も心なびくも、良心にいたたまれず、離れる決意も、財奪う計画固持の相棒と対決に。盗みの金で自力で着いてくという娘、その父=総監も、彼の本来⋅改心、悪の面、の全てを了解済みの一つ上の芝居⋅捌き。
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『丘の~』は、未だ50年代半ば以降の全盛期の密度には届かないにしても、やはり見事なサーク色の傑作であるは疑い無い。主人公の性格、その働く場の環境、そして特異な天候がもたらした異常になりかねない限られた時間。これらの追い詰め方と、柔軟⋅滑らかに流出す、特異とされた人間が内に持つ⋅決められた条件や制約を遥かに越えた、人間としての素直さ⋅伸びやかさ。しっかりこちらを掴んでくる。中身的にはともかく、その世界を真実と同義語に描けるのはサークだけ。
「正しさと神に沿う」に頑なさで、同居の病院の看護師長と対立、所属する尼僧院の院長も苦い顔の、かなり年季の入っても一途なヒロインは、折からの大雨で足止めを喰った中の、移送中の兄毒殺の悪名高い若い女と出逢い、妹の死に責任感じ尼僧になった自分と同じ過敏な罪の受け止めを感ず。彼女の心を解き、真相に当たる内に、亡兄に横恋慕の妻への復讐を計った主治医が浮かび上がってくる。ひと悶着⋅解決も、色々なわだかまりは溶け、姿勢の貫きの大事さの理解はされてく。
組織⋅制服の列、小舟を仕立てたり⋅激しい格闘に至る意志の達成のアクションの構築力、施設や自然の持つ力、移動やカット積みの力強さらが、光ってくる。キャラが各々に意固地で、内包した憤怒の力があり、それが絡み⋅暴き合い、世界を推し進めてゆく。内と外を計りながら、正確⋅厳かに人と場の危機を描ける作家、ラングとサークに限られる、と思う。
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