映画漬廃人伊波興一

動くな、死ね、甦れ!の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

動くな、死ね、甦れ!(1989年製作の映画)
5.0
世の中には傷つく事だけを覚悟してのぞまなければならない映画もある

ヴィターリー・カネフスキー
「動くな、死ね、甦れ!」

自分自身が住む地方都市にも似た、学校や住宅地、商業施設を有した環境が一夜にして瓦礫の山と化した光景や、昨日まで当たり前な事として住まいと学校を行き来していた子供たちが(明日が来ないかもしれない)と怯える瞳に触れてしまえば小心な私などおいそれと現在のウクライナ情勢を語る事など出来ない。

語れば語るほどに、こちらの素肌に無限に広がるに違いない未知の痛みを本能的に察知してしまうからです。

だからツイッター等で展開している識者たちの論争に触れたりすると、よほど他人事なのか、よほどまともな感性から程遠いのか、(同調)にも(抗い)にも落ち着き難い居心地の悪さに苦しんでしまいます。

同じようにおいそれと語る事の出来ない映画も存在します。
 
今しがた観た映画に興奮した時、ひとりでも多くの連帯を求めて誰かれ構わず語り尽くしたくなる迷惑千万な私ですが、ヴィターリー・カネフスキーの
「動くな、死ね、甦れ!」の衝撃をあしかけ30年近く語る事が出来なかったのは、語れば語るほど痛みに傷つくだけでなく、無関心を決め込んだり、抽象的な連帯を表明する者にさえ、現在のウクライナ情勢を饒舌に語る者にも似た、故のない敵意を抱きかねない、と警戒してしまったからです。

世の中には、現実の起きている問題と同様に、未知の人々との共有を情け容赦なく分断させてしまう作品も絶対に存在すると思う。

もちろん「動くな、死ね、甦れ!」で描かれている世界と現実のウクライナ問題が同一線で論じられるという意味でも、旧ソ連時代出身の映画作家ヴィターリー・カネフスキーが、21世紀のロシアの様相を予見している、という意味でもありません。

描かれている世界の痛ましさ、という点についてさえ、その気になれば未知の人々と共有しうる穏当な言葉も至る所で流通しているのはラース・フォン・トリアーの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」やネメシュ・ラースローの「サウルの息子」を観れば明白です。
同調するにせよ抗うにせよ未知の方と気持ちを共有できる作品をいくら語ったところでこちらはちっとも傷ついたりしないのです。

私たちが語る事に躊躇いが生じてしまうのは、描かれている世界がどれだけ特殊な状況であっても、それがいきなり普遍に繋がる瞬間に立ち会ってしまった場合です。

「動くな、死ね、甦れ!」で描かれているのは第二次世界大戦終結直後のソ連極東地帯である事は誰の目にも明白ですが、一年の殆どが曇天で覆われたようなぬかるんだ炭鉱の地にキャメラを向けるカネフスキーは、寒さと飢えに苦しむ労働者や、母親が近所のどんな男と寝ようとも何とも思わない少年や、然るべき政治的な理由で収容された日本人に対してさえも異様な状況とみなしているわけではありません。

もしこの映画をあらゆる豊かな言質で述べる事が出来る方がいるなら、この世のあらゆる有象無象が発する癒えることのない痛みにどこまでも他人事で構えていける人種だと思う。

私たちが思わず言葉を呑むしかないのはキャメラが捉えた画面が図式的な理解と解析を私たちに自粛させ、一瞬ごとに更新していく持続性で私たちの視線を釘付けにしてしまうからです。

恐らくは殺された少女の母親らしき女が全裸で走りまわる姿を追うキャメラが動き始める時、観ている者はカネフスキーの名前どころか「動くな、死ね、甦れ!」というタイトルさえ忘れたとしても自我を失ったこの女性の振る舞いだけは永遠に忘れないだろうと確信出来ます。

映画の上映時間が終わってもこの極東の風景が容易く終わる筈もない、ということを誰もが強く意識せざるおえないからです。

昨日まで当たり前のように過ごしていた暮らしが根こそぎ奪われたウクライナの国民の多くが一夜にして戦争難民となってしまったように、そこには如何なる平穏にも回収されがたい現実だけが不気味に鳴り響いているのです。