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ペトラ・フォン・カントの苦い涙のgenarowlandsのレビュー・感想・評価

4.1
初ファスビンダー。これは同性愛ではなく、女の六相を描いているんじゃないかと思う。男性を抜きにしては存在しない女の別の顔。母、娘、妻でもあったペトラ、女友だち、それを不安定にさせるのは、謙虚でなければならない女と支配する男を受け入れる女。

「謙虚な女」が逃げるのは、「支配する男を受け入れる女」と相性がわるいから。

室内の壁画ですら神は男性の裸体で現れる。おもしろいのが女たちがその壁画の前で話し合うと、頭の上に男性の姿をした神の局部だけが常に写っているところ。母と娘の上には写っていない。

結局、ソレが女を苛立たせ、あるいは慰めになり、また女の人生を造っていく。男性の全身ではない、ソレである。全身とソレはまるで別人格のような描き方だった。

最初、女子トークがおもしろくて、わかるわかる仲間に入れてと思ったんだけど、雲行きが怪しくなり、引いて観てた。しかも超絶長回しで、何回か意識が遠のいた。それでも話しはつながっていく。原作の戯曲の力強さを感じた。結果、おもしろかった。

映像はモード系のファッション雑誌やメゾンのコレクションレベルの美しさを追求している。

「アル中女の肖像」をファスビンダーが「最も美しいドイツ映画」と言った理由がわかる。こちらでも、同じくハイヒールでガシッガシッと食器を踏みつけていた。アル中女が鏡をぶっ壊したのはファスビンダーへのオマージュだった。食器は女性の性役割を、鏡は女性であること自体、ハイヒールという最強武器でぶっ壊した。

本作では支配的な男性性を拒否しているが、だからといって同性愛の話ではないと思う。悩ましく頭の上には常にソレが浮かんでいた。男性のソレと男性全体を切り分けていることも、逆に女性が男性に性役割を求めていることの裏返しだし。「<女は女である>男性がいなくても」と、言い切れない余韻がおもしろかった。70年代のフェミニズム運動への答えのようで。

さて「<女は女である>男が男であるから」あるいは「<男は男である>女が女であるから」をどう翻訳するか。ファスビンダーは女の6つのディメンションで表したが、多様性を前提とした現代ではさらに複雑になりそう。それぞれが支配しようとする関係は互いに変わらないから。

オゾンのは同性愛が全面に出ているようなので、どうオマージュしたのか気になる。
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