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親密さのarchのレビュー・感想・評価

親密さ(2012年製作の映画)
5.0
大傑作。濱口作品の中で一番好きかもしれない。

ENBUゼミナールの卒業制作という形で作られた本作は、劇中劇「親密さ」の稽古やリハーサルの第一幕と実際に上映される劇中劇「親密さ」の第二幕、そしてその後を描いた第三幕という異様な構成となっている。


濱口作品特有の「ワークショップ形式」で展開されていく第一幕だが、《講師と生徒》の構図が後の『ドライブマイカー』や『ハッピーアワー』とも違う、稚拙で危ういパワーバランスで成り立っているのが特徴。
『ドライブマイカー』は熟練の演出家への信用と寡黙さが様式特有の緊張感を生み出しており、『ハッピーアワー』は講師の独特の胡散臭さとチャームによって、一種の催眠状態を生み出していた。
だが、それら作品よりも以前に製作された本作は、それ以降の作品にあった強力な《力場》が発生していない。原因はどこか若い人間の集まりで、講師と生徒の関係が未成立だからかもしれないし、趣味の延長線上の舞台だから、という設定にあるのだろう。
ともかく、本作の《講師と生徒》の構図はフラジャイルで、常に崩壊の危険信号を発されていて、いつ破綻してもおかしくない、という意味で緊張感が常に漂っている。

そんな中で作品が度々言及するのは(いつも通りだが)「人間関係」だ。

ただこれもまた自分が見てきた他の濱口作品と比べると「他者」と向き合うことに強制力が働いていて、スポコン的でちょっとマッチョな点で異なっている。
本作以降の濱口作品が関係性の中にドラマを見出してきて「他者」と向き合うことについての考察を行ってきたわけだが、本作では「舞台を成功させる」という時間的制約の中で、強いられる形で「他者」と向き合うことになっていく。それはこの舞台「親密さ」の成功は、技術面の向上ではなく、自己開示や相互理解を通して《真正面から「他者」と向き合わなければいけない》に掛かっていると、感覚的な言葉ながらもハッキリ断言されていることにも起因していて、凄く安直な主義の対立構図や肉体接触(暴力)を通して「衝突」が、色々と描かれていることに意外性を感じた。

だが、つまりは「衝突」についての映画なんだと、観ているうちに納得していくことが出来た。
他の濱口作品(『ドライブマイカー』を除く)が非常に入り込んだ話で、結局は「他人って理解不能だよねー そこから始まるしかないんだよねー」という話をする中で、本作は「でも作品を完成させるには、是が非でもその「他者」を理解しないといけない」と、それ以上のことが要求される状況を作り出しているのだと考えたのだ。(ちなみに濱口作品が凄いのは、その「他者」って理解不能だよねをネチネチと何度も手練手管を使って何度も何度もやり、そのことを未だに"研究対象"にしているところにもあるので、後退しているとかそういう話ではない)

それはこの映画の中心にある良平と令子にとって、舞台「親密さ」が必要だったのだと、その場があったからこそ2人は関係性を進められたのだという本作の根幹部分からも理解出来るだろう。
舞台創作の中でこそ、2人の関係性は浮き彫りになり、「衝突」して分かり合うにはその有限な時間、限定的な空間の強制力が必要だったと思わせる作品になっているからこそ、自分は本作の異質さに納得がいった。


改めて言うと、脚本を担当する佐藤秋(亮)演じる良平と演出を担当する平野鈴演じる令子、2人の関係性が中心にして舞台に参加する役者達との緊張状態についての話が第一幕である。
良平と令子は互いの才能を認めつつも舞台や他者に対するスタンスですれ違う。良平は固く心を閉ざし、冷徹に他者との距離を測る。一方で令子はその合理性や悲観主義を理解しながらも、そこに抗うべきだと感じている印象だった。
2人の口論は舞台に関するディベートや反省会ばかりで、主に劇団員とのコミュニケーションに関すること。「役者の自信を何故周りが維持できるように保たなければいけないのか」等、理想と現実、合理性と感情論が交錯するようで、日付が過ぎていく度に、稽古の現場は方向性を見失っていった。
あの、"いま、ここ"で、台詞の演技練習とかやらないんだ、という不安感は非常に伝わってくるものだったが、一見して直接的な効果がなさそうなことが描かれるからこそ、同時に我々の理解できない舞台の核心に迫る観念的なアプローチに錯覚させられ、「凄いもの」への期待値はその自ずと上がったように思う。

どれだけ表面的には「舞台」の話をしていようと、結局は2人の関係性、つまり恋愛関係に帰着していく。
令子は心を開いてくれない良平にどこか不安を感じ、良平は傷つかないようにか心を閉ざしていて、2人の間の「分からなさ」は、直前の喧嘩によって混沌を極める中で非常に長い長回しのショットの中で、一つのクライマックスを迎える。

本作で最も印象的な長回しは、夜明けの中で撮影されることで、そんな2人の表情は一切読めず、シルエットとして溶け合うしかない状態が作り出されている。淡いマジックアワーを撮っているという点で、非常にエモーショナルであるのは勿論なのだが、ほぼ台詞のみの情報(それを暗記していることの意味合いもあるが)である為に、掴みどころのなさが素晴らしい。
互いに顔を見合わせず、並行してい歩く様子は、その気恥かしさを隠す為の舞台装置にも思えるし、正面を向き合って1対1で会話する一種のゲームと対比されると考えると、この「並走」して「互いに向き合わない」平行した線の中で彼彼女は「関係」出来ないという結論のようにも見えてくる。



続いて本作の奇妙な世界観について触れたい。本作は2011年の2月〜3月を舞台にした作品である。
以下メモ(記憶が曖昧なので間違ってるかも)
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2月3日 台詞読み(脚本) 夜脚本直し
2月4日 改脚本 役変更
2月5日 対面カウンセリング
2月15日〜18日 戦争、恐怖の講義 、音楽のレコーディング
3月 上演
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まるでカウントダウンのように刻々と《3.11》に近づいていく。だが、そのことについて本作は一切触れない。
舞台は3月中旬頃に確か上演されたはずで、3.11以降の出来事のはずに何事の言及もなく第二幕第三幕は続いていく。

ここまでであれば出来事としては起こったが、それについて描写していないだけだと割り切れる。
だが面倒なのは、北朝鮮との戦争状態が偽史の中にある現実とは異なる世界の話だということが分かる為に、「そもそも東日本大震災が起こらなかった世界線なんじゃないか?」と勘繰る余地が生まれるところである。

それ自体に何か意味があるのかは分からない。ただ明らかにこの本作は《知る由もない空白の時間》を想像させようとしてくる作品だ。第一幕、第二幕、第三幕の幕間はまさにその《空白の時間》であり、特に第二幕後の《空白》は、想像を最も掻き立てる。また良平が家出した時期もそうだし、喧嘩して遅くに帰ってきた"あの夜"に何が起こったかもと想像するしかない。
全編に《知る由もない空白の時間》があり、登場人物全てが、心中察することの出来ない他者として不穏を身に纏っている。その一つの要素として、機能するのだろう。


ifの戦争の要素は、本作を舞台(及びその製作に関わる人達)の外側にある世界を意識させる。
そのおかげで「舞台に熱中することが全てだ」という話にはならず、「あらゆる創作は今もどこかで戦争が起こっているこの世界で能天気に行われる行為なんだ」という巨視的な視点で、ある種の無力感が漂わされる。
創作活動や趣味がままならない世界の寂寥感は、創作者の後ろめたさなのか、無力感なのか。真剣に「舞台」に向き合うことに価値はあるのだろうか?と問われているよう気がする。



第二幕。「親密さ」という舞台自体が、良平の心境の発露のようであり、彼の心の底に沈んでいるものを拾ってきただけと名言されるように、虚実が非常に曖昧になっている。
"世界"と"舞台"が現実と虚構として互い呼応するように、"役者"と"キャラクター"も互いに呼応する。
良平演じる衛の心境が反映される吐露は、良平の心の叫びのようにも聞こえてくるし、三角関係の男女の恋愛劇は、第一幕の良平の"空白"を連想させる。役者とキャラクターが曖昧に混ざりあっている中で進む劇は、その外野にいる令子の存在によってより強まるようでもある。

第一幕は「出来る奴がやらないこと」の残酷さを描いていて、そこが好きな部分だったが、まさに目の前でこれ以上の適役がない「衛」を見せられることで第一幕は更に感情を揺さぶるものにしてくれる。
第一幕があったからこそ、ダブって見える人もいれば、第二幕からフォーカスされる人もいるのも興味深く、そこにも意図的な"空白"が存在する。

舞台の中で印象的なのは、衛の詩で、『PASSION』の中にあった暴力についての話と地続きの話で、濱口監督の重要な命題なのかと感じた。その他にも多くの要素が濱口作品で使い回されていて、意外にも手数は少ないというのが印象。

濱口監督のインタビューによるとこの第二幕は舞台特有のフラジャイルさを映像的に再現するために、わざわざ距離を空けた場所にいる2人の会話を接続し、基本的には観客よりも手前から撮影していたそうだ。時折、観客の顔は映るが、それは何かを物語る表情ではなく、舞台の脆さを際立たせる為に映しているらしい。
今ではNTLなんて試みがあるが、当時はない。NTLもまた観客を映すことはないがスマホの音とかは入ったりするので、微妙に方法論は違うが、似ているなと感じた。


第三幕。「親密さ」の数年後を舞台とした短い幕。とある駅でどうやら別れたらしい令子と良平が偶然出会う。
戦争は今尚続き、民間の多国籍軍のようなものが第一幕の時よりも台頭していて、そこに良平が入ったらしい。第一幕との心身の変わりように同様を隠せないが、それが果たして何が原因なのかは定かじゃない。ただ舞台から遠いところにいることだけは確かで、舞台「親密さ」が彼彼女らに何か作用したのかも、今やもう分からない。

第一幕で世界の中にある「舞台」という俯瞰的な視点が提示される中で、それが結実してしまったような今の時代に通ずる《寂しい世界》が短い会話から伝わってくる。特に彼にとって「垢抜け感」は彼の幸せなのだろうが、どうしてもその違いを受け入れられない。彼の弱さは、舞台と同様に彼の強さで、そこに魅了されていたこと、失われてしまったものを想い、それを観客は惜しむ立場ではないことにもどこか寂しくなる。

電車は来た。2人は別々の電車に乗り込む。並行する線路、互いにその姿を互いの車内に見つける。第一幕の『HAL』のオマージュのような電車と外にいる人の一瞬の逢瀬がここまでリフレインされる。
2人は電車の中を走り、追いかけるようにしてはしゃぐ。
コントロール不可能な動く乗り物の中で運動を受け入れながら、その中で抗う様は『DEEPTH』のラストでも反芻されるものであり、同時に第一幕ラストの夜明けの中を並行する2人のリフレインでもある。またその「電車」と「その中の人物」の入れ子構造は、キャラクターと役者、人間の表面と内心と同期しているようで、彼らの心の内が見事に表象され、初めて観客に見える形で繋がる瞬間になっている。

それらの電車は2人の出会いや別れを意に介さず別れていく。
後に『ハッピーアワー』で見えるのその表象はこの時点で、か完成していたのだと思えた。

鑑賞後、すぐには立ち上がれないほどに強烈な映画体験だった。



余談(箇条書き)

『ブエノスアイレス』からのデジタル時計の引用


(正面からの1vs1は)ドキュメンタリーの切り返しショットはここから来たのか!

カメラは幻想を削ぎ落とすが、セリフには幻想を復興しうる力がある
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