映像観し者

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンの映像観し者のネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます

ミニシアターで鑑賞。
ある女性の3日間を淡々と描く作品。
201分。タイトルも長いが本編も長い。
さらには淡々とした日常が続き、しかもカメラは舞台演劇のように枠を固定して登場人物の動作を追いかけることがない、その上シーンごとに行われるアクション(買い物をする、料理をする、など)が終わったあと少し何もない時間をおいてからカットがわかる演出が加わり、意図的に停滞した時間を作り上げている。
しかもそこで行われるのは、とある女性が男と寝て、掃除をして、買い物に行き、夕飯の準備をして、家の整理をして、息子と話して寝る。というなんでもない一日。それが前半二時間超をかけて二日分繰り返される。
なぜそんな観客への嫌がらせみたいなことを……と思うが、ラストまで観ると淡々とした日常の繰り返しに倦んでいく主人公の人生に訪れる倦怠感を観客にも追体験させようという仕掛けなのだとわかる。
セリフの端々から、主人公はシングルマザーで、金を稼ぐために売春していて、友人関係は希薄で人付き合いがない。家と息子という枠に拘束された彼女が人生に嫌気を抱いているさまを、一切の説明なくただ日常の連続の中から観客は汲み取ることになる。
しかし長さに耐えられる体力があれば、こういったスタイルの映画としてはかなりわかりやすい作りになっている。
息子との会話で浮かぶ性嫌悪エピソードと売春する主人公の対比、売春の予定時刻が来るまで嫌そうに時計を何度も確認する主人公、息子との無味乾燥の会話と対比するように預かった赤ちゃんを抱くといった主人公の状況説明エピソードはわかりやすく配置されている。そして二日分の日常を繰り返した後に訪れる三日目では、料理は失敗し、楽しかったころの服はボタンがない、と明確なほつれが連続する。そして閉じ忘れた壺。あからさまに大きく写されるハサミを観た瞬間、誰もがこの映画の破局を察するだろう。
死体とセックスしているみたいな冷たいシーンから訪れる破局。それでも泣きさけんだり爆発することもできず淡々と座りこむしかない主人公の姿は、観客の人生に応じて様々な悲哀や社会の歪みが見えるのかもしれない。

日常の反復によって小さな差異を観客に届け、ついに一つの大きな破れが訪れる、というのは押井守が後に『スカイ・クロラ』でもやっているが、とにかく観客に体力と集中力を求めて自力で映画を掬い取れと頑固な態度を取られることになるのでしんどい。忙しい現代人が、どうにか時間を作って安いとはもう思えない映画代を払って座席に座り、この尺の映画を集中して身をゆだねるというのはかなり難しい。そんな観客を求める贅沢な姿勢の映画。
映像観し者

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