わたがし

渇き。のわたがしのネタバレレビュー・内容・結末

渇き。(2013年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 めちゃめちゃ久しぶりに通しで観たような気がするけど、本当に何度観ても編集が人間技ではないし、この映画なしに自分の映画の趣味は語れないというか、自分が映画を撮る上で影響を受けている要素があまりに多すぎる。観返す度に映画自体が自分の分身のような感覚にもなるし、絶対にそうではないという感覚にもなり、その両方がドンと一気に押し寄せてくる。
 混乱を極め倒した時系列、その時系列で崩壊していく人間関係、暴力としか言いようのないカット割りとBGMの選曲と配置で描かれる暴力、暴力、人を痛めつける暴力、人を痛めつけているようで結局自分を痛めつけている暴力、あるいは人を愛する暴力、愛される暴力、などなどこの映画で描かれる暴力には本当にいろんなカラーがあり、ひとくくりに「暴力映画だ」と片付けてしまうにはあまりに勿体無い映画だと思う。
 その様々な暴力はやがてひとつの暴力に集約されていくわけで、その暴力こそが普遍的な愛だよね。親を持つ子供ならば絶対に人としての「暴力性」を発露せざるを得ないよね。という、散々暴力を見せておいて「お前も同じようなもんだろ」と言ってのけるラストの後味の悪さったらもう!!何度観たって最高以外の感情がなくなってしまう。
 全てが役者の顔面で語られ、カット割りと音楽と照明の色味だけで語り切られてしまう。それ以外で語られることは恐ろしいほどに何もないし、そのあたりは全力で中島監督特有の「語る気のない」語りのセンスが爆発していると思う。映画は語ってもいいし、語らなくてもいいんだ。物語なんて、ストーリーとしての繋がりなんて、そんなことは考える必要がなければ無理に考える必要なんてないんだ。
 実際、ああいうラストだけど、クライマックスの藤島の「今俺はどの時系列で何をしている」のかさえもわからない感じ、最後に至っては覚せい剤まで打っているわけで、もしかしたら加奈子を殺したのは藤島だったのかもしれない。その責任を他人になすりつけているだけかもしれない。
 そう考えると物語を考えるのは作り手ではなく受け手であるわけで、最終的に映画を作るのは観客自身なのだ。そういう意味で、ほとんど何も語っていない(ように見える)この映画は2時間の映画体験として圧倒的に正しいと思う。いつかいつか、自分が生きているうちかはわからないけど、いつかきっと、この映画がもっとちゃんと正当に評価される日が来ると思う。この映画には、映画どころか、(物語ることが前提にある)表現全般の未来そのものがある。
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