Kuuta

ラストエンペラーのKuutaのレビュー・感想・評価

ラストエンペラー(1987年製作の映画)
4.3
見る人が支配する。皇帝は畏れ多く、庶民が目を合わせてはならない存在。幼少期のカメラ位置は低いが、成長に合わせて上から見下ろすショットが増えていく。

紫禁城に閉じ込められた溥儀は、上下の視点を持つ一方、門の外の中国、変わりゆく世界を見通せない。彼は外圧に個人の欲望を紛れ込ませる。その身勝手な姿は、宝物を盗んでいた宦官ら中国の支配体制や、「暗殺の森」でファシズムに傾倒した主人公と変わらない。

母の顔の記憶がない溥儀。視覚が制限されているからこそ、薄い布越しの触覚で己の存在を確かめる。映画の後半、溥儀は視力を失い始め、メガネを通して世界を認識する。西洋と東洋を行き来する自転車、二つの輪のイメージ。間に残るのは、嘘で繋ぎ止めたハリボテの帝国、満州国だ。

(性も国籍も変幻自在な川島芳子が満州国の象徴だろう。坂本龍一演じる甘粕は、満州国のトップのような説明がされるが、実際には国家に流される溥儀に近い描かれ方をしている)。

圧倒的に豊かだった、黄昏の紫禁城。色の付いた世界が褪せていく。満州国の公舎には色が無い。人工的な白い光が、暗闇を際立たせている。溥儀はもはや見る側にはいない。日本の記録映画の被写体として、プロパガンダの道具に成り下がっている。

彼は戦後、映画の観客に変わる。チケットを握り締めつつ、最後に映画から消える。

街では文化大革命が起き、皇帝に代わる「上からの視線」として、毛沢東の肖像画が掲げられる。観光地と化した紫禁城の代わりに、赤い信号で人々は進み、真っ赤な旗が視界を奪う。

起きているのは同じことの繰り返しだ。虚しさは漂うが、まだ分かりやすい。

対照的に、最後までエンペラーの「顔」が表象されず、その玉音に人々が自殺する我が国は、明らかに異彩を放っている。ベルトルッチは史実を基に、溥儀が東京駅のホームで昭和天皇と握手するシーンを撮影したが、配給会社の要望で日本版ではカットされている。86点。
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