感傷に浸っている。
ただそれだけとも思ってしまうのだが、故郷を失った/発ったロシア人のアイデンティティー喪失の様を描いたと言われればそうなのかもしれない。
雨や霧、温泉などの水やろうそくと灯油の火といった自然のイメージ、扉や廃墟同然の建築、空間のイメージ、犬と馬の動物のイメージ。これらをみるだけで、タルコフスキーの画だと瞬時に分かるのだが、印象的なのは肖像化する人物だ。
ファーストショットでは、アヴァンクレジットの前後/中で静止画となって止まるし、温泉に浸かる人も止まっている。終盤のドメニコの焼身自殺のシーンでも傍観者は、肖像のように固まり彼が悶える様をみつめるしかない。
この肖像化はサスノフスキーがピョートルに宛てた手紙に書かれた、劇で肖像のように停止していないと重い罰を受ける悪い夢、しかしそれは夢ではなく現実だった内容と呼応する。
きっと故郷を離れたロシア人は、異国という舞台で、その国の人のようにならなければならない。同一化するよう身を定めないといけない。けれどうまくできないし、できなければ迫害される。できたとしても、それは理想の生き方ではなく、悪夢そのものであること。そんな現実のあり様を表象している気がする。
しかしその肖像化の果てが、ドメニコという他者が苦しみ、死ぬ様を傍観するしかできないこととするのなら、あまりにも悲惨だ。
この肖像化する人物の「停止」は水や火の自然が揺れ動く様≒「運動」と対比されている。
だからこそ、終盤にピョートルは水が引いた温泉でろくそくの火が消えないよう端から端まで歩くことになる。彼は肖像化に与さない。ろうそくの火が消えたらまた端に戻る。そしてやっとの思いで端に辿り着き、ろうそくを立てる。その移動の往復をトラッキングショットで、さらにろうそくを立てる様を手の寄りでフレーミングしており、それを1ショットでやっていることには驚嘆せざるを得ない。しかしそのろうそくの火の揺らめきと彼の歩く運動が、サスノフスキーの死を傍観するのではなく、哀悼することを可能にしているのだろうか。
その哀悼が、ピョートルを始め故郷を失った者が悲惨な現実を生きようとも、生き続ける明瞭な希望に結実したかは定かではない。むしろラストショットでは、彼が廃墟の中に建てられた一軒家の前の地べたに犬と共に座っている。『惑星ソラリス』をみていれば、それは夢の中にしか思えないし、その夢は理想化の果ての悪夢である。だから本作もまた、個/己の内面に拘泥している印象は免れ得ない。
感傷に耽るのではなく、他者に開いていく哀悼へ。必然的に死が付き纏うが、悪夢みたいな現実をその現実のまま生きるにはそうするしかない。
追記
手紙を抜粋する。
「親愛なるピョートル
イタリアに来てもう2年になる
仕事や生活の面で貴重な2年だ
昨夜 悪夢を見た
伯爵の劇場でオペラを上演する夢だ
第1幕は大庭園であちこちに彫像がある
彫像の男たちは裸で立ち動いてはいけない
私もその彫像の役だった
少しでも動いたら 重い罰を受けるのだ
伯爵は我々をじっと見つめていた
台座の大理石の冷たさが足に伝わる
秋の枯れ葉が動かせない腕にふりかかる
でも動けない
耐えきれず倒れそうになったとき
目が覚めた
怖かった 夢ではない現実なのだ
ロシアに帰りたい
かなわぬ思いに私は押しつぶされる
我が故郷 あの林 幼年時代の空気
哀れな友より 愛をこめて
――サスノフスキー」
補記
「(翻訳は:筆者加筆)不可能だ 芸術はすべてそうさ」