このレビューはネタバレを含みます
キャプテン・アメリカの新作。まず脚本が見やすいと思った。三幕構成がしっかりしており、主人公がどういった欠落を抱え、それをいかにして取り戻すかが事件の挟み込み具合などを含め、エンターテイメントとして一番気持ちいい配分になっている。やはりそれは一種の娯楽全体主義をもってしか達成できないものである。
思ったより暴力的だった。やっぱり、娯楽映画に暴力はつきものなんだよ。アクションとは暴力。カーチェイスの時だって、クルマが壊れることは暴力なんだし。そんなわけで、ああ、そっか、今のハリウッド映画って暴力を描いていいんだと改めて思った。
興味深い構造をしている。例えば、冒頭で任務に向かうためにキャプテン・アメリカは飛行機から落下する。次に、裏切り者の汚名を着せられシールドから脱出するとき、彼はまたガラスを破って落下する。この時はしばらく道路に倒れこみ痛そうなしぐさを見せる。そして、いろいろあったすえにアイデンティティを取り戻した彼は、再度任務に向かう際にも落下する。今度は起き上がる。
さて、この「落下」という動作、ヒッチコックから継承されてきた映画的文法の伝統であるけれども、最近これを最もうまく使っていた娯楽映画のひとつが『007スカイフォール』なんですね。
実際、『ウィンター・ソルジャー』と『スカイフォール』は似ている部分が多い。主人公が属している組織及び上官への不信感、すべてを失い逃げる主人公、コンピューターのおかれた部屋で悪玉と対峙するところ。
さて、『スカイフォール』ではラスト、ジェームズ・ボンドはおそらく007映画で唯一涙を流す。よく言われることだが、彼はここで決して任務に成功したわけではない。
キャプテン・アメリカはどうだろう。実はこの映画では、本来なら三幕構成に従い3回であるはずの落下に、4回目が存在する。そこで彼は、かつての親友が敵となり、盾を捨て、戦わないと宣言し、落下し、息を吹き返す。そう、この映画内で、一応の解決は観たかもしれない。しかし、キャプテン・アメリカのドラマは、終わってはいない。
こういったものを連作長編とも言うべき映画シリーズで打ち出せたこと。
最後までキャプテン・アメリカを開放させなかったことはシリーズものだからできることだし、葛藤に直面している男女に、キャプテン・アメリカとロマノフを配置しているときも、観客が彼らの冒険を知っているから、その冒険に意味を持たせることができる。確かに、マーベル、うまい、と思った。