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ホドロフスキーのDUNEのpikaのレビュー・感想・評価

ホドロフスキーのDUNE(2013年製作の映画)
5.0
「デューン」ロス過ぎて、引き続きこちらも再鑑賞。もうロスは終わった。それどころじゃない。これ見ると泣いちゃう。そして刺激を受け、自分の人生ってなんなんだろうと自省させられ、元気が出て活力を得る。鬱になったら見るべき映画かもしれない。この前向きさとパワーと芸術的アイデアや先見の明に痺れる。

息子はこの偉大なる芸術家である父の側から離れられないのか、寄り添ってるのか、ホドロフスキー映画にほとんど出演している長男ブロンティスを見るといつもそんなことを感じてしまう。12から14の2年間、1日6時間週7でポールになるために青春を犠牲にした息子について語るときに「あの時映画の完成のために腕を切り落とす必要があるなら喜んで差し出していた」と例えて、人生をかけていたことを表現していたが、息子は栄光も挫折も情熱も絶望も味わった父の側で長年どう感じていたのか気になる。こんなパワフルでサイケデリックな才能と情熱を持つ父がいたら、、、自分ならビビって逃げ出してしまうかもしれない。

ホドロフスキーは太陽のようだ。熱すぎて近寄れないときもあるだろうけど、生きるのに必要で、元気も情熱も与えてくれる。若く才能のあるアーティストたちがホドロフスキーによってメキメキ成長していく様を垣間見れて、最高の上司じゃん、と思ったところでホドロフスキーの作品が出てきて、最高の芸術家でもあると改めて驚かされる。「ホーリー・マウンテン」見たくなった。

原作とは別の解釈の改変シーンが色々と垣間見れる。丁寧に説明されるシーンの大半がそれだった。
それについてホドロフスキーは「結婚と同じだ。結婚式では新婦は純白のドレスを着ているが、そのままでは子供はできない。ドレスを引き裂いてレイプしなければならない。おれは原作をレイプしたんだ!」とニコニコ語る。原作実写映画化の際に「これは原作レイプだ!」とネットで怒号が飛び交う昨今、このホドロフスキーの言葉は必要な名言だと思った。ファンを怖がって原作そのまま映画化したんじゃ何の意味もない。映画である必要性、新たな媒体での表現を目指さぬは作る意味などない。
ホドロフスキーの「DUNE」のオリジナルラストを引っ掛けて、この未完の「DUNE」がその後の映画界に与えた多大な影響力を例えるブロンティスがなかなか粋だった。
これを見てしまうとヴィルヌーヴ版も失敗なのかもしれないと思わされた。原作通り映像化しただけではないか、観客や制作側の顔色をうかがって想像内のものを無難に作っただけではないか。失敗作ながらも原作レイプに挑戦していたリンチ版と、形は違えど同じ轍を踏んでいる気がしてきた。
見る前と見たあとでは世界が違って見える、見た人に新たな人生を与えたい、それこそが映画の力だと、語るホドロフスキーは何世代も前を生きていて、周りの人間が追いついていない。アラキスの惑星学者カインズ博士に例えられていたことも泣く。

2016.12.6【1回目】
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