Tully

インサイド・ヘッドのTullyのネタバレレビュー・内容・結末

インサイド・ヘッド(2015年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

本作は11歳の少女ライリーの感情を擬人化し、その変化と成長を、彼女自身の成長と重ねる形で描いた物語である。が、劇中で他の登場人物の感情がおりにつけ描かれててもいるとおり、これはただ彼女だけの物語ではない。およそ人に生まれ、感情を持ち合わせた人全ての物語でもある。ライリーの感情の主たる存在である喜びは、ライリーに幸せな人生を送ってもらおうと、ありとあらゆる楽しい事をかき集める。ライリーの幸せのためなら、同じ感情であるはずの悲しみを、大切な思い出から遠ざけ、果ては排斥することすら厭わない。少し怖い表現にはなるが、その様は幸せ原理主義者、あるいは幸せ独裁者である。「幸せな人生をおくる」無論これは、今を生きる多くの人の人生の目的である。間違っていようはずはない。しかし、あえて言わせてもらえば、「幸せになる事のみ」を追い求める人と長い時間を共に過ごすことは、私には出来ない。劇中にも描かれていた事ではあるが、悲しみはじっとその場にとどまり、辛く、苦しい立場にある者と共に居て、その感情を共有する存在である。そして立ち止まり心を休ませる存在でもある。そこで人は休み力を蓄え再び歩き出す。恐らく悲しみのない、あるいは悲しみの極めて少ない人と言うのは、当初の喜びのように、常に騒々しくはしゃぎまわり、他者の苦しみや痛みに極めて鈍感な人だろう。いるだけで人を疲れさせるタイプである。喜びは劇中、大事な思い出が、実は悲しみ無くしては成立し得ないことを知って、「人の感情は一色で染め上げられる物ではない」と悟り、成長をする。これは人が「世の中にはいろいろな人がいる」と知って成長する過程にそっくりである。先ほど喜びを、幸せ原理主義者と例えたとおり、「世の中は一色である」「世界は一色で理解できる」と信じ込む人ほど、危ないものはない。人の常として、人は自分が良いと信じたものを人に押し付ける傾向がある。人は感情と共に育ち、感情は人と共に育つ。そして両者は日々刻々と変わる。これは私見ではあるが、それは一直線に成長をし続けるものではなく、ある日は進み、ある日は退化するものであろう。恐らく死ぬ日まで、この運動は一生続く。しかし、大人は自分の心、感情、あるいは考えが固定された物であると考え勝ちである。結果、自分の心を省みることなく、特定の感情を偏って育てしまうこともある。ライリーの父の心の中心が怒りで、母は悲しみ、ピザ屋の店員が嫌悪一色、バスの運転手が怒り一色であったように。自分の状態を振り返り、それを恥じり、何とかしようと思えれば、例えそれが失敗に終わったとしても、それは人間としての真の成長である(と私は思う)。つまりこの映画は、(ともすれば相手の立場も考えず、嫌悪丸出しの顔をするような、あるいは怒り出してしまうような私の様な)成長し切れていない大人に向けても作られた作品なのである。最後に、まるで場違いな言葉ではあるが、私はこの映画を見終えた際、「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉を、なぜか思い浮かべた。
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