ナガエ

バクマン。のナガエのレビュー・感想・評価

バクマン。(2015年製作の映画)
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高校二年の頃、パズルにハマったことがある。
その当時の僕にとって伝説的だった「パズラー」というパズル雑誌があった。今でも僕は、最高のパズル雑誌だと思っている。普通のパズル誌は、「ナンプレ」や「お絵かきロジック」など、基本的に一つのパズルだけを扱う。しかしパズラーは、様々なジャンルのパズルを載せているだけではなく、毎号パズル作家たちが新たなパズルを生み出し、それを載せ続けていた。恐ろしく難しいパズルに挑戦する企画、何号連続で正解し続けられるかと挑む企画、読者参加型で正解のないパズルをみんなで楽しむ企画など、様々な企画も用意されていた。それ以降、僕が見ている限り、同種の雑誌はほとんど発行されていないので、その当時も画期的なパズル誌だったのではないかなと思う。

毎号発売日にすぐに買い、授業中もひたすら解き続けていた。勉強もちゃんとやってたから、その辺のバランスはうまくとってたんだろうけど、僕の中ではずっとパズルばっかりやってた記憶しかない。チャレンジしがいのあるパズルにひたすら手をつけ、悩み、苦労しながらも、どうにか解けた時の喜びはなかなかのものだった。

さらにその雑誌には、読者から新作パズルを公募するコーナーもあった。僕はこれにもハマってしまった。新しいパズルのアイデアを考えては、ひたすら作り続ける。もちろん、作り方なんて誰かに教わるわけじゃないから、なんとなく勘で作っていく。一度本誌で採用されて2万円もらったことがある。いい思い出だ。

その雑誌は、ちょうどタイミングよく、高校3年生になるタイミングで休刊(事実上の廃刊)になってしまった。「ちょうどタイミングよく」と書いたのは、受験勉強が本格化するからだ。もし高校3年生の時もパズラーがまだ発行されていたら、僕の受験勉強に多大な影響を与えていただろうと思う。それぐらい、パズルばっかりやっていた。受験勉強に支障をきたさなかったのは幸運だったけど、しかし、休刊になってしまったのは本当に残念だった。

たぶん僕が、人生で何かにハマっていたのは、そのパズルにハマっていた一年だけではないかという気がする。

どうも僕は、何に対しても冷めている。熱くなることがない。大体のことにおいて、テンションが上がらない。不器用ではないので、やってみれば割となんでも出来る。どんなことも、そこそここなせてしまう。やればなんでも楽しいと思うし、人に誘われて断ることもない。メイド喫茶に行ったり、屋久島に登ったり、ダイビングをしたり。色んなことをしてるんだけど、全部人に誘われてやったことだ。誘われたことをきっかけに自分で始めてみようと思うこともないし、自分から何かをやってみようと思うこともほとんどない。

だからいつもぼくは、やりたいこと・好きなことを持っている人は羨ましいと思ってきた。

『今まで何にもやってこなかったからなぁ』

主人公の一人がそう呟くシーンがある。「君たちらしいマンガを描いてくれ」と編集者に言われた後の会話の中でだ。
その気持ちが僕にもとてもよく分かる。僕は、勉強しかしてこなかった。運動でも文化系でも、部活に入れ込んだこともなければ、趣味に全力を注いだこともない。虫を観察させたら負けないとか、ナンパだったら超得意とか、そんなものも別にない。こうやって、文章を書くことは、まあずっと続けてるし、本を読んだり映画を見たりした後で感想を書かないのは気持ち悪いと思っちゃうけど、だからって別に熱狂してるって感じでもない。

登場人物の一人で、主人公二人のライバルである高校生漫画家・新妻エイジは、6歳の頃からマンガを描いているという。ジャンプ編集部内でも、10年に一人の天才、と言われている。
6歳って、何してたかなぁ、っていうぐらいのレベルの記憶しかない。本はちょっと読んでた。勉強もまあまあしてた。友達と缶けりとかもしてただろう。でも、それぐらい。
もちろんそんな年代の頃から何か一つのことに熱中出来る子どもってのは多くないんだろうけど、でも僕は、ゲームにもマンガにもアニメにも熱中した記憶がない。これがないと生きていけない、みたいなものって特になかったし、今もない。

たぶん、運もあるのだろう。僕は将棋が好きで、多少勉強もしてみてるんだけど、将棋で強くなる人間って大体、祖父が将棋をやってたみたいな、子供の頃から将棋が身近にある人間だ。スポーツでも芸術でも、そういうことって往々にしてある。けど、ゲームやマンガは、いつの時代にも子供の近くにあるものだ。そういうものにも特にはまらなかったわけだから、やっぱり僕の資質の問題もあるかもしれない。

『生まれて初めて夢中になれた』

主人公の一人がそう呟く。そういうものに出会える人生ってのは、本当に羨ましい。金がなくても、学がなくても、友達がいなくても、そういう、これしかない!みたいなものに出会えてる人生っていうのは、もう、それだけで大きく満たされているんじゃないか。そういうものを持ってない僻みかもしれないけど、そんな風に思うことはある。

マンガ雑誌とマンガで、日本の出版物の36,5%を占めているという。本屋で働いている身としては、「マンガがなければ出版社も本屋もとっくに潰れてる」っていうのは、あながち言い過ぎじゃないよなと思っている。

その中にあって、ジャンプは絶対的な王者だ。
1968年創刊。マガジン、サンデーが既に人気を博している中の後発で、後発故に人気作家を揃えられなかったため、新人作家の育成に力を注ぐ。1970年代に200万部、1980年に300万部、1985年に400万部、1988年には500万部に達した。これは、全人口の20人に一人、小中学生の2人に1人はジャンプを読んでいた計算になる。最高部数は653万部で、未だにこれを超える出版物は、書籍全般で見ても存在しないという。

そんなジャンプに挑もうとする二人の高校生、高木と真城。高木は、絵は書けないが文才はあり、ストーリーを担当する。真城は高木に誘われてコンビを組むが、当初はコンビを組むことを断っていた。真城の叔父がジャンプで連載していた漫画家で、その姿を見ていたからだ。しかし、真城が昔からずっと好きで、勝手にその絵を描いていた亜豆というクラスメートとあれこれあって、真城は漫画家になることを決意する。

二人は、未経験ながら猛然とマンガを描き始め、ついにジャンプ編集部への持ち込みにこぎつけるが…。

というような話です。
全体的には面白い映画だと思います。ただ、尺の問題などもあるんだろうなと分かっていて書くんだけど、「マンガを描く」といいう部分のみに特化しすぎていて、物語全体の深さが損なわれている、という印象も受けました。

面白かったのは、まず、ジャンプの裏側を見ることが出来た、ということです。僕自身は、ジャンプを読んだことがない人間なんですけど、コミックは時々読みます。別にジャンプに限らず色々読むけど、ジャンプの作品はメジャーになる作品が多いので、結局ジャンプの作品を読んでいる、という感じになったりします。




ジャンプに毎週何本の連載が載っているのか知らないけど、相当限られた枠であることは間違いありません。それを、日本中のあらゆる漫画家になりたい人間が狙うわけです。高木は、真城を誘う時、「漫画家で生きていけるのは、全体の0.001%だ」みたいなことを言います。当たれば大きいけど、死屍累々の世界であるということです。

その連載を、いかにして決定しているのか。ジャンプ編集部で連載が決まるまでの流れを知ることが出来たのは面白いと思いました。3話分のネームを描かせて編集者と議論し、それから封筒に入れて編集部内の人間に回す。そして各編集者が封筒に感想を書く、というような描写は、実際にそんな風にやってるんだろうなぁ、と思わせるリアリティがありました。
ちなみに、僕の友人に、集英社で働いてる人間がいるんですけど(ジャンプの編集部員ではありません)、その人間いわく、「バクマン。」の撮影は実際に集英社で行われたらしいです。

『編集者は敵ではない。編集部と漫画家が対立した時、編集者は必ず漫画家の側に立つ』

高木と真城の担当編集は、そう彼らに伝えます。「漫画家は使い捨てなんだろう」と詰め寄られた時のことです。すべての漫画家が成功するわけじゃない。ジャンプの連載を勝ち取れても、そこからさらに闘いは続いていく。アンケートによる順位が、明確に、マンガの人気を序列化していく。どんな分野にいてもそうだろうけど、マンガは、連載という形で続ける以上、その序列からは逃れられない。「負ける」ことになれば、去るしかない。
編集者自身も、何が売れるのか分からない、と正直に言っている。そりゃあそうだ。それがわかれば苦労しない。編集者と漫画家の関わりの微妙なところも描かれていて面白いと思った。

ストーリー展開は、原作である「バクマン」がジャンプで連載されていたものであるのもあって、ジャンプのテーマである「友情・努力・勝利」を地で行くような感じです。作中でも登場人物が「友情・努力・勝利」と言う場面があります。起こるべきタイミングっで起こるべきことが起こる、という意味ではなかなか予定調和的なストーリー展開ではありますが、マンガを描くシーンを実際に漫画家同士がバトルするような演出で描いてみたり、男臭い画面が続く中で時々ヒロインが登場したりと、なかなかうまく緩急をつけていたなと感じました。

『マンガは誰かに読んでもらって初めてマンガになるんだ』

このセリフはいいなと思いました。このセリフは、近い場面で二度出てくるんだけど、二度目の、真城の叔父が言った時の方がより良いなと感じました。編集者はある場面で、『描きたいように描きたいなら、同人誌で描けばいい』と言います。描きたいものではなく、読者が読みたいものを。読まれてこそマンガなんだというのは、マンガに限らないだろうけど、その通りだなと感じました。

さて、個人的に気になった部分があります。それが、「マンガに関する描写以外が存在しないこと」です。これは、先程も書いたけど、映画の尺なんかもあって色々難しいんだろうと思います。原作を読んでないんで何巻出てるのかちゃんとしらないけど、そこそこの長さのあるマンガでしょう。それを圧縮して映画にするには、ある程度削らなければならないこともわかります。

しかしあまりにも、マンガ以外の描写が出てきません。例えば、親。高校生が、高校での生活をすべて捨ててマンガを描いている。その有り様に親が登場しないのは、さすがに不自然過ぎます。マンガやアニメでは許されるかもしれないけど、実写の映画ではちょっとそぐわない感じがします。特に、二人が最大のピンチを迎える場面。結局そこでも親は出てこない。もちろん、これだけ徹底的に登場しないので、意図的に排除したのだろうということぐらいは分かりますけど、やはり不自然さは感じました。

また、亜豆との関係性も、ちょっと中途半端過ぎないかと感じます。真城が漫画家になるためのきっかけを与えてくれるし、その後も重要な役回りとして登場するんだけど、亜豆との関係性もちょっと放置されたまま。週刊の連載をこなすために、高校ではほとんど寝ていたという二人だけど、高校での描写がほとんどないこともちょっと不自然に感じました。いくら彼らが学校の傍流的な立ち位置にいたとしても、ジャンプで連載しているとなればもっと話題になったり騒がれたりするでしょう。そういう描写もありません。

映画はあくまでも、マンガに関係する部分だけに特化していて、確かにそれは潔い判断だと思うんだけど、やっぱり一本の映画として見た時には、弱さもあるなと思ってしまいました。




作中に出てくるマンガは一体誰が描いてるんだろうと思ったけど、やっぱり小畑健でした。まあそうでしょうね。一流の作家は連載を持ってて忙しいだろうし、そこそこの作家に任せられることじゃない(なんせ、ジャンプで上位を争うマンガってことになってるわけだから)。「バクマン。」の作画を担当した小畑健が適任だよなぁ、と思いました。

エンドロールが凝ってて面白かったです。マンガの単行本の背表紙がずっと映しだされる部分があるんだけど、そこには「ヘアメイク探偵 1巻 ◯◯」みたいな感じに書かれてるわけです。そういう架空のコミックの背を大量に作って並べたわけで、面白いなと思いました。

主人公の二人が原作のイメージと合っているのか、原作のどういう部分が改変されているのか、そういうことは僕には分からないので、原作ファンがどう感じるのかは分からないけど、エンターテイメントとして見た場合面白く見れる映画じゃないかなと感じました。
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