うめまつ

ナショナル・シアター・ライヴ 2015「フランケンシュタイン」のうめまつのレビュー・感想・評価

4.8
フランケンシュタインが怪物(人造人間)の名前だと思ってたくらいには無知の状態で観た。彼に名前はない。まだ、ではなく永久に、ない。名前を与えられる事は存在しても良いと認められる事だ。彼は自らを生み出した博士にすらその存在を認めてもらえていないのだ。その引き裂かれるような苦しみと凍てつくような悲しみが、この物語の中枢を貫いている。名前は命を包む毛布のような存在なのかもしれない。当然のようにその毛布に包まれてこれまで生きてきたけど、自分に名前がなかったら、と考えると恐ろしくて心細くて身体中が黒く冷たい水で浸されて行くような感覚になる。私には名前がある。私は少なくとも父と母から存在を認められ、祝福されて生まれて来たのだ。その証がこの名前に宿り、知らない間に私を守り温めてくれていたのだな、と思った。

カンバーバッチ(以下BC)とジョニーリーミラー(以下JLM)が博士と怪物(と呼ぶ事にまんまと胸を痛めているが便宜上そう呼ぶ)を交互に演じていて、それって二つの舞台を掛け持ちしてるような状態で負担が半端ないのでは?と思ったけど、この作品においては必然とも言える。二人は向かい合わせの鏡であり一心同体だから。

BCの怪物は終始人ならざる妖気を纏っており《怪物》という強烈なキャラクターを作り上げている、という風に見えた。それ故「生み出してはならなかったもの」という印象が強かった。JLMの怪物は無垢さが際立ち、雨に打たれ小鳥や緑と戯れ自然を感じたり、手帳を齧るところなんてジャイアントベイビーでしかなくて愛おしかった。怪物を演じている、というよりはただ生まれ落ちた過酷な運命に翻弄されている人間に見え、共感性が高いので全ての行動理念が理解できたし、誰かに愛されたかった、博士を愛したかった、という気持ちも痛いほど伝わって来た。

逆にBCの博士はマッドサイエンティストでありながらも胸の内は常に揺れ動いており、傲慢だけど迷いや愛を捨て切れない姿が人間らしく、博士という人物の奥行きやディテールをより感じる事が出来た。怪物の事を恐れながらも、彼を自分の一部であり肥大した自我だと認めているから、どんな禍いをもたらそうとも博士が怪物を殺せないのは当然だと思えた。JLMの博士はより冷淡で迷いはなく、怪物と自己を完全に切り分けているような印象だった。それにより突き放されたBCの怪物はより孤独に見えるし、ラストの「自らの創造を殺しに来い」はより一層末恐ろしい気持ちになった。

当然どちらの配役も見応えがあったけど、BC博士/JLM怪物ver.の方がより感情を揺さぶられたし、二人が一つの運命を背負っているように見えた。
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