スガシュウヘイ

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のスガシュウヘイのレビュー・感想・評価

4.0
これはおもしろい!
全編ノーカット風の撮影と、超coolなジャズドラムのBGMで、臨場感は爆上がり。
リーガンが一応主役なのだが、マイク、サム、マイクの恋人レズリー、リーガンの愛人ローラ、元妻シルヴィアとそれぞれにドラマを抱えており、群像劇の様相を呈している。

またラストシーンの意味深な展開についても、最後に考察してみたい。

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レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』の舞台化をめぐるストーリー。
この小説は、人それぞれに、それぞれの愛の形があることを、人物の会話だけで提示した。

これになぞらえるとすれば、本作はさながら『芝居について語るときに我々の語ること』といった感じだ。

落ちぶれた元映画スター、人気ブロードウェイ俳優、評論家、娘、元妻、などそれぞれの価値観が対立する。

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リーガンvsマイク(舞台俳優)
「俺の舞台で勝手に勃起するな」
これは笑った。いや、本当は笑うところじゃないんだけどね。舞台上でのマイクの振る舞いは、観客としては面白い。


リーガンvsタビサ(評論家)
「あんたはレッテルを貼ってるだけだ!」
評論か、レッテル貼りか?
芸術か、大衆娯楽か?
人気があることと、才能があることは同義ではないのだ。



リーガンvsサム(娘)
「ブログもツイッターもFacebookもやらない。パパは存在しない」

これは痛恨の一撃、、。
舞台の中でもがくリーガンに対し、サムの視点は、舞台制作の外側にある。

そもそもレイモンド・カーヴァーの小説を知ってる若者がどこにいるのだ?
舞台芸術の審美眼をもつ若者がどこにいるのだ?
そんなことより、YouTubeの再生回数やフォロワー数を増やさないと、存在をアピールできないと娘は主張する。


次々に展開する様々な対立は、ノーカットだからこそ、よりリアルな質感をもってこちらに伝わってくる。



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以下ラストシーン考察
ネタバレ含む
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先述のとおり本作は、全編ノーカット風の撮影をしているわけだが、一度だけカットがかかる。なぜ、全編ノーカットにしなかったのか?

このカットには必ず意味がある。


ここまでずーっと切れ目なく続いてきた現実世界。このシームレスな世界に、あえてカットを入れるということは、つまりここから先は「現実ではない」ということを暗示してるんじゃないのかな?

現実からのカット、と見れば、めちゃくちゃカッコいい演出だ。

ラストシーンまでの展開をまとめてみると

・別れた妻に自殺未遂の過去を話す。
・舞台上で拳銃自殺
(何度も見返したが、やはり頭を確実に撃ち抜いているように見える。これ鼻?)
・スタンディングオベーション
・批評家の退席
ー(ここで本作唯一のカット)ー
・炎をあげて落下する天体
・マーチングバンドとスパイダーマン
・海岸と鳥の群れ
などの意味深な映像のあと、
 突然↓
・病院のシーン
となるわけだが、この病院シーンは何か変だ。

テレビに映る人々はなぜかロウソクを手にしている。これはリーガンを追悼してるんじゃないのか?リーガンはやはり死んでいるんじゃないだろうか?

この病院シーンは、すべてリーガンの魂が見た夢なのでは?

本当のリーガンは空を飛べない。
それは空を飛んで帰ってきたはずのリーガンを追いかけて、「運賃払え」と追いかけてきたタクシー運転手がいたことからわかる。
空を飛ぶのは、あくまで妄想なのだ。

しかし、ラストシーンでサムは空を見上げて微笑んでいた。そこにリーガンが飛んでいたのだとすれば、ここはやはり現実ではない。

ラストシーンは残念ながら、天国だと思う。

しかし、きっと現実世界でも起こっているはずだ。(無知がもたらす予期せぬ奇跡)というやつが。


公開:2014年(米)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(『BIUTIFUL ビューティフル』『レヴェナント:蘇えりし者』)
出演:マイケル・キートン、エドワード・ノートン、エマ・ストーン
受賞:アカデミー賞作品賞・監督賞ほか。